「歌舞伎失うわけには」 松本幸四郎はコロナ禍で挑んだ
「高麗屋」代々の芸にアイデアあふれる新作歌舞伎、ドラマに映画、シェークスピア劇。常に走り続けてきた歌舞伎俳優、松本幸四郎さん(48)に急ブレーキをかけさせたのは、コロナ禍でした。でも、止まったままではいられない。劇場閉場中に始めたオンラインでの活動、父・白鸚(はくおう)さんから引き継ぐ「勧進帳」弁慶への思い。たっぷり語ってくれました。
――歌舞伎の幕が開かなかった昨春。どのように過ごしていましたか。
昨年3月の歌舞伎座では、父が初役の平作、僕も代役で数日演じた経験しかない十兵衛で、「沼津」を勤めるはずでした。実の親子で、互いに「初役」の父子を演じられる幸せをかみしめ、稽古に励んでいた日々に、まず届いたのが初日の延期、次いで公演中止の知らせです。舞台は無料配信されることになり、3月下旬に歌舞伎座で撮影しましたが、無人の客席は舞台稽古でしか経験がない。演じ終えた時、つい習慣で手直しのため集まろうとして、はっとしました。これで終わりなんだ、と。修正して臨むべき初日の幕は、もう開かないのです。つらくむなしく、無力感でいっぱいになりました。
この時は、まだ翌月に「こんぴら歌舞伎」が控えていましたが、これも後に中止が決まってしまった。2018年に始まった高麗屋の親子3代襲名披露の掉尾(ちょうび)を飾る大事な公演でもあったんです。ぼうぜんとしました。
歌舞伎座も7月まで閉場となり、予定帳が真っ白に。次の公演予定がないなんて、学生時代以来です。「おうち時間」は片付けや染髪など、頭を空にして集中できる単純作業をずっとしていた。でないとやっていられなかった。
そのころ、曽祖父の七代目幸四郎が終戦直後の前橋で、「橋弁慶」を演じる映像を見たんです。直前に映し出されたのは焦土の町並み。そんな時代に野外舞台で、何千という観客を集めて。古い映像ですが足腰の力強い動きは間違いなく曽祖父の弁慶でした。衣食住にも事欠く時代に、歌舞伎どころではなかったかもしれない。それでも芸能が、娯楽が必要とされたのでしょうね。理屈ではなく、人が人であるために。曽祖父もそれに応えて役者のつとめを果たした。
うらやましい、と思いました。それほどまでに歌舞伎が求められていたことを。そんな舞台で演じた曽祖父を。改めて「役者は生きることイコール芝居をすること」と痛感しました。戦乱も災害も越えて、400年続いた歌舞伎を、今、失うわけにはいかないと。
――猛然と動き出しましたね。
歌舞伎は役者や大道具などあまたの職種でつくる総合芸術。「職人」の勘は空白が長引くほど戻らなくなり、観客からも遠くなる。歌舞伎が失われる恐怖が心に渦巻き、焦燥感と危機感は耐えがたかった。劇場が開かぬなら、他でお芝居ができないか。一刻も早く役者の声と姿を届ける方法を探そう、歌舞伎にかかわるすべての人が腕と体を動かせる場を創ろう。そのために動こう、と決意した。志を同じくする松竹の若手の皆さんと力を合わせ、6月下旬、夢の実現を図る願いを込めた「図夢(ずぅむ)歌舞伎」の第1弾、構成・演出・出演の3役を担った「忠臣蔵」の生配信にこぎつけました。
絶対に感染者は出せないから一つのカメラに役者は1人。会話の場面も顔は合わせず、都内の稽古場に同じセットを2カ所組んで撮影し、一つの画面に組み合わせた。役者も最小限なので僕は1人で何役も勤め、五段目では猪(いのしし)役も初めて演じた。実はちょっとやりたかったんです。肉体的にきつい役で長い公演ではつらいけど、この撮影なら1回でいい。これでもっと年取った時、「大変なんだぞ、猪は」と、若い役者にもっともらしく話ができるじゃないですか。
チェックやダメ出しもZoo…