生きた証 これからも 原爆資料館、展示毎年入れ替えへ

比嘉展玖 宮崎園子
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 広島への原爆投下から75年が過ぎ、遺品などの被爆資料の劣化も進んでいる。貴重な資料を多くの人に見てもらいたいのに、展示をするほど傷んでいく――。こんなジレンマを抱えてきた平和記念資料館で27日、新しい展示が始まった。

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 資料館は2019年のリニューアルオープン時に方針を変え、被爆資料は1年ごと、原爆の絵は半年ごとの定期的な入れ替えをすると決めた。今回はその初回で、本館常設展示の「8月6日の惨状」「魂の叫び」などのコーナーの64点を入れ替えた。

 資料は照明が当たることで色があせ、温度や湿度なども劣化の原因になるという。このため、リニューアル時には館内の照明を暗くし、その後も、日記や罹災(りさい)証明書などの紙の資料を実物から複製に入れ替える対策をとってきた。

 一方で、資料館には約2万点の資料が収蔵されているが、展示されるのは約300点。落葉裕信学芸員は「定期的な入れ替えをすることで、被爆資料の劣化を防ぎつつ、できるだけ多くの人に見ていただきたい」と話す。

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 本館展示の入り口近く。360度一周できる展示ケースに収められた動員学徒の遺品の数々の中に、広島二中1年生だった興津正和さん(当時12)の生きた証しが常設展示された。

 お守りとして身につけていた二中の入試の受付番号票、母が縫い付けた木綿糸が残る学徒隊章、名前が記された木製の名札、そして手書きの時間割表。

 東京都東大和市に住む妹の山田紀子(としこ)さん(85)は、02年に寄贈した理由をこう語る。「父も母も亡くなり、兄を記憶する人はもう私だけ。私が死んだらごみになってしまう」

 流浪の旅を続けた遺品だった。やっと見つけた安住の地が、悲しみのまち、広島の資料館となった。

 銀行員だった父恒一さんの転勤で1943年、家族で広島に転居。そして、2年後の8月6日。

 二中1年生は、広島市中島新町(現・広島市中区)の本川土手で建物疎開をしていた。爆心地から約600メートル。ほぼ全員、約320人が犠牲になった。

 夜勤明け、白島北町(同)の自宅で被爆した恒一さんらは、正和さんを探して市内を歩き回った。焼かれ、膨張してあたりに転がっていた遺体を一人ひとり確認していった。並べられた弁当箱の列に、「興津正和」とあった。大豆飯となんきんはそのままだった。

 行方不明のまま1カ月。市役所に名前が貼り出されていると、同じく子を捜していた女性から聞いた。

 すでに骨になっていた。名札、バックル、万が一のとき両親の故郷・淡路島にいくための旅費5円札6枚などが保管されていた。「遺体を見せなかったのはかえって親孝行かもしれない」と、家族は言い聞かせ、遺品は墓に納めた。

 転勤の末、東京で過ごすことに。墓も移すことになり、恒一さんは70年、遺品を淡路島にできた戦没学徒追悼施設「若人の広場」に寄贈した。だが、94年に運営団体の資金繰りから閉鎖。翌年の阪神・淡路大震災で建物が破損し、侵入者が遺品を荒らすなど荒廃した。

 淡路島在住の親族がかろうじて取り返した遺品5点は紀子さんが持ち続けたが、資料館への寄贈を決めた。

 集団疎開で郊外の寺に預けられ、直爆を免れた紀子さんは、結婚後に暮らす東京で証言してきたが、地元の被爆者団体も解散した。

 さびしくてひもじい疎開生活。父の転勤先で「ピカがうつる」といじめられても歯を食いしばって通った学校生活。紀子さんが高校に上がる頃、再び広島に転勤になったとき、「広島に行ったら子どもを取られる」と言った母は、「供養していないから正和が呼んだ」と言い聞かせていた。

 「私の代で、こういうことを語れる者がいなくなると思うといたたまれない」と紀子さん。命を無残に奪われた少年少女たちとともに並ぶ兄の無言の叫びを聞きに広島に行きたいが、高齢で難しいという。「私がいなくなっても兄の遺品が広島で訴え続けてくれる」

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 本館の常設展示を進むと、真っ赤な生地でできた鏡の覆いが目に飛び込む。原爆で命を失った様々な年代の遺品が並ぶコーナー「魂の叫び」。17歳で亡くなった井東ユキさんの遺品だ。「姉は刺繡(ししゅう)が好きだった。ひと針、ひと針、完成に向けて念じながら縫っていた姿を覚えている」

 被爆当時、ユキさんは広島市吉島本町(現・中区)の自宅にいた。新築した自宅は原爆投下の爆風でも壊れず、中にいたほかの家族は無事だったが、ユキさんだけが中庭に飛ばされ亡くなった。ユキさんの胸には割れた鏡の破片が刺さり、覆いがかぶさっていた。

 寄贈した弟の茂夫さん(90)=東広島市=は、原爆投下直後、学徒動員されていた陸軍兵器補給廠(しょう)(現・広島大学医学部医学資料館)から帰宅し、布団に横たわった姉の姿を見つけた。家族から死亡の経緯を聞かされた。薪と油をかき集め、裏庭で火葬した。

 覆いは、ユキさんが亡くなる1年ほど前、学校の課題で半年かけて制作したものだ。下部にはユキさんの血痕が残っている。茂夫さんは言葉を絞り出す。「姉の人生は17歳、これを完成させただけで終わってしまった。これが生きた証しになるなんて不条理だ」

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