秀吉の城の印象だけど… 再建400年、徳川大坂城とは

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渡義人
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 大阪のシンボルのひとつ、大阪城。1615年の「大坂夏の陣」で落城、炎上したあと、徳川幕府が再建をはじめて昨年で400年をむかえた。今でも「太閤(たいこう)さんの城」のイメージが強く、徳川時代への関心は薄いが、近年の調査や研究で、その特徴も明らかになりつつある。「錦城(きんじょう)」と呼ばれた徳川大坂城は、どのような城だったのか。

 徳川家康の死後、2代将軍の秀忠は大坂を幕府直轄地とし、1620年から3期約10年にわたって大工事をした。石垣の高さ、堀の深さは「古きに倍増」と指示したとされ、豊臣時代の城を分厚い盛り土で埋め、その上に高い石垣と幅の広い堀を持つ、より大きな城をつくりあげた。

 大阪歴史博物館で1月下旬にあったシンポジウム「徳川大坂城400年」では、城の専門家や発掘担当者らが最新の研究成果などを披露した。

最強の城づくり

 大阪市立大の三田村宗樹(むねき)教授(地質学)は、仁木宏教授(日本中世史)らと実施している地盤調査の成果を報告。城の造成には周辺の地面を掘った土が使われているが、豊臣時代は上層の砂や小石が多いのに対し、「徳川大坂城の本丸地区は、粘土質の盛り土で構成されている」と指摘した。堀を深くするため地面を深く掘り、中層の粘土層まで達したらしい。

 調査は、地中に埋まる豊臣時…

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