ドラえもん・鬼滅読まない訳は…藤子Aさん曲折の漫画道

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竹田和博
【動画】トキワ荘時代の思い出やコロナ禍での過ごし方について語る藤子不二雄Ⓐさん=遠藤啓生撮影
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 日本が世界に誇る「マンガ」と「アニメ」。その創生期を生き抜き、長年漫画界をリードしてきた一人が、「忍者ハットリくん」「怪物くん」「笑ゥせぇるすまん」などの作品で知られる藤子不二雄(A)さん(86)だ。2021年はデビュー70年となる。自身のまんが道の原点やアイデアの源泉、コロナ禍に思うことなどを語ってもらった。

 「ご苦労さまです」

 張りのある声で、漫画界のレジェンドは現れた。ツイードのジャケットの下から、笑ゥせぇるすまんの主人公・喪黒福造のにんまり笑顔をのぞかせて。そして、ダンディーさを漂わせつつ、気さくに、ユーモアを交えながら、語り始めた。86年に及ぶ「まんが道」を。まずは故郷・富山から、現在の姿からは想像できないようなシャイな少年だった――。

 1934年、寒ブリで有名な富山県氷見市で約700年続く曹洞宗の古刹(こさつ)、光禅寺の長男として生まれた。

 「赤面症で、電熱器ってあだ名がついてたぐらい。いまとまるで違うんです。周りはみんな、船に乗ったりしてたくましいけど、僕はひ弱なチビ。コンプレックスを感じて友達付き合いをしなかった。父がくれたお布施の紙にチャンバラを描くのが好きでね。時代劇の挿絵をまねて描いていた。漫画は横山隆一先生の『フクちゃん』が大好きで模写をしてました」

転校で「藤本君」と運命の出会い

 転機は国民学校5年の時だった。父が突然亡くなり、寺を出ることに。母、姉、弟と家族4人で伯父を頼って同県高岡市に移り、同市定塚(じょうづか)国民学校(現定塚小学校)に転校した。すぐに「人生の転換」が重なっていく。

 「父の死が一番人生を変えた。亡くならなかったら和尚さんをやってたと思う。だけど、転校先に藤本(弘)君(後の藤子・F・不二雄さん)がいて、僕の人生が決まった。いま考えても本当に不思議な出会い。僕一人だったら絶対に漫画家にならなかったと思う」

 そして中学2年の時、運命の一冊、手塚治虫さんの「新宝島」と出会う。少年が乗り、疾走するスポーツカーを様々な方向から描いた絵に衝撃を受けた。

 「偶然、高岡の本屋に1冊だけあるのが光って見えて、2人で読んで大感動した。戦争が終わって2年。そんな漫画見たこともなかった。映画が大好きだった僕にとって、それは紙に描かれた映画。これなら自分でもやれると思った」

 手塚作品をまねて腕を磨き、県立高岡中部高校(現高岡高校)時代には、2人のデビュー作「天使の玉ちゃん」が毎日小学生新聞に連載されるまでになった。だが、卒業後は伯父が重役を務める地元の富山新聞社で記者の道を歩み始めた。

 「最初はインタビューもおじおじやってたけど、次第に色んな人間がいる世界に気付いた。漫画は色んな人間が色々するから面白い。僕自身も人間の裏や心を描くのが狙いなわけでね。これは記者時代の仕事が非常に勉強になった」

 富山新聞では、学芸部に入り映画の紹介記事、移動動物園や郵便配達の裏側をのぞく漫画入りのルポなどを手がけ、自分でどんどんアイデアを出して企画を出した。

 「藤本君は製菓会社に2、3日入って辞めちゃって、出版社から頼まれた単行本を描いてた。僕は土日に手伝ってたけど、そのうちに新聞社の方が面白くなって、漫画家になるつもりはまったくなかった。だから、2年後に藤本君に『東京に行こう』と言われてがくぜんとした。相当悩んでお袋に相談したら、あっさり『好きなようにしられ(しなさい)』と。これで決断した。お袋は、僕が漫画描きたいってわかってたんでしょうね。いまになって感謝してます」

「神様」から離れ、独自路線を模索

 日本漫画は新しい時代に入ろうとしていた。石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、さいとうたかをさん、松本零士さんら、才能あふれる同世代の描き手たちが次々とヒットを生み出していった。だが、すべての原点にいたのは「神様」手塚さんだった。その存在の大きさを語る口調には熱がこもる。大きすぎるゆえに、影響から離れ、独自性を打ち出すのにも苦心した。

 「日本の漫画は、手塚先生が…

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