第1回斬新だった木綿のハンカチーフ「こんな詞に曲書けない」

有料記事ザ・ヒットメーカー

構成・定塚遼
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 日本のロック史に偉大な足跡を残したバンド「はっぴいえんど」のドラムス担当だった松本隆は、悩んだ末、家族を養うために専業作詞家として歌謡曲の世界に飛び込む決心をした。筒美京平との共作を始めたある日、松本は後に大ヒットする「木綿のハンカチーフ」の歌詞を書いて渡した。だが、歌詞を見た筒美京平は言った。「こんな詞じゃ、曲をつけられないよ」。

 「木綿のハンカチーフ」「スニーカーぶる~す」「Romanticが止まらない」「セクシャルバイオレットNo.1」……。日本のポップス史上、最大級のヒットメーカーとして知られた「作詞・松本隆、作曲・筒美京平」のゴールデンコンビだが、最初の共作は振るわず、お蔵入りに終わったという。「僕たちは水と油、北極と南極ぐらい違っていた」と松本隆さんは語る。名曲の数々はどのようにして作られたのか。10月に他界した筒美さんとの曲作りの秘密や知られざる関係性について、松本さんがロングインタビューで振り返った。

 ――筒美京平さんという存在を知ったのは、はっぴいえんど結成前に細野晴臣さんから教えてもらったとか

 細野さんとは僕が18の頃に知り合ったんです。大学に入る前の春休み。そこから一緒にアマチュアバンドの活動を始めたという経緯がまずあって。彼は僕の二つ上。僕が大学一年のときに、彼は三年生。音楽のことも僕より全然詳しかったし、レコードもたくさん持っている。

 だから、細野さんの家に行っては、ザ・バンドとかバッファロー・スプリングフィールドとかモビー・グレープとかプロコル・ハルムとか、そういったアメリカの洋盤をよく一緒に聴いたんだ。で、ある日、家に行ったら珍しく日本の歌謡曲がかかってた。西田佐知子の「くれないホテル」。細野さんいわく、「この曲を作った筒美京平という人は天才だ」と。

 ――松本さんはどう感じられましたか

「お洒落(しゃれ)でいい曲だな」と。そもそも、細野さんは、日本の歌謡曲にはまったく関心がない。だからそういう曲は聴いてないと思ってたんだ。でも実はちゃんと目配りしていたんだ。それに驚いたと同時に、筒美京平という名前が心に刻まれた。細野さんが評価する作曲家ということでね。

 ――出会いは1973年のはっぴいえんど解散後ですね

 僕以外の3人、細野さん、大瀧(詠一)さん、そして(鈴木)茂はバンドがなくてもミュージシャンとしてやっていける。でも、僕は、はっぴいえんど以外でドラムを叩(たた)く気にはなれなかった。じゃあ、プロデューサーとしてやっていく道はどうだろうと。南佳孝の『摩天楼のヒロイン』や岡林信康の『金色のライオン』、あがた森魚の『噫無情(レ・ミゼラブル)』といったアルバムをプロデュースしたりもしたんだ。

 中でも、佳孝のデビュー作となった『摩天楼のヒロイン』は思い入れが強かった。架空の映画のサントラというコンセプトを考え、ほとんどの曲の作詞をして、ジャケットのディレクションもやって。後に名盤といわれたけれど、当時はまったく売れなくてね(笑)。僕は結婚したばかりだったし、子供もできた。家族を養わなければならないわけで、これはまずい、どうにかしなきゃと。食べていくためには専業作詞家となって、歌謡曲の世界に飛び込むしか道はない、と。

 そして、レコード会社の知り合い3人に、「作詞家になろうと思う」と言ったら2人が仕事持ってきてくれたんだ。アグネス・チャンとチューリップ。幸いなことに、その2曲がベスト10に入ってくれた。作詞家宣言をしてから3カ月ぐらいしか経ってなかったと思う。すると、新しい作詞家が登場したぞと業界が注目してくれて。ある日、ソニー・ミュージックの人が言ったんだ。「筒美京平さんが君に興味を持っているから、ちょっと会ってくれ」と。ああ、細野さんが評価していた「くれないホテル」の筒美京平さんだ、と。そして僕は京平さんの仕事場へ行くことになるわけです。

 ――当時は国立競技場近くの仕事場ですか

 素晴らしいマンションでした。間取りも広くて、玄関で住めるかもと思ったほど(笑)。

「ものすごい嫌みを言われたなと」

 ――最初の印象はいかがでしたか

 彼はあまり背が高くないので…

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