母は我が子に手をかけた 満蒙開拓団、逃避行の生き地獄

有料記事

編集委員・大久保真紀
[PR]

 75年前の夏のことは、いまでもはっきりと覚えている。満蒙開拓団として入植した中国東北部旧満州)で、現地の中国人に襲われ、命からがら逃げ惑った。埼玉県秩父市の高橋章さん(85)は、自分たち開拓団は被害者だが、加害者でもあったことを忘れてはならないと思う。

 1943年、8歳の時に父母ときょうだいの家族7人で中川村(現秩父市)から開拓団として中国東北部に渡った。あとで知ったことだが、「開拓」とは名ばかりで、入植したのは現地の中国人が何代にもわたり耕し、家族を養ってきた土地だった。開拓団員たちはそうした中国人を「苦力(クーリー)」と呼んで働かせていた。

 「父はうちの苦力の許(シイ)さんをたたかなかった。だからか、旧正月には許さんの家に呼ばれてギョーザを食べた。私もよく家に遊びに行った」。

 45年7月、18歳から45歳の男性が召集された。いわゆる「根こそぎ動員」で、高橋さんによると、中川村開拓団でも137戸のうち124戸の戸主が徴兵された。43歳だった父も応召し、二度と帰って来なかった。旧満州の部隊の所属になり、シベリア抑留に向かう列車の中で死亡したと戦後、聞いた。

 8月に入り、苦力の雰囲気が変わったのを感じた。畑に出てこなくなり、馬を返しにこなくなった。ソ連軍の侵攻を知り、日本の敗戦を中国人は予感していたと後に知った。当時、高橋さんら開拓団員は情勢を全く知らなかった。

ここから続き

 そして、同月15日。苦力が…

この記事は有料記事です。残り2066文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【締め切り迫る】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら