大隈崇、編集委員・永井靖二
モンゴル東部で1939年、日本と旧ソ連が衝突したノモンハン事件は後の太平洋戦争でも見られた、現場の将兵の責任を厳しく問うような「精神主義」がはびこる転機になったとされる。事件後に自決した将校の孫が昨秋、当時の記録を調べたところ、死因は「脚気(かっけ)」や「脳溢血(いっけつ)」となっていた。なぜ死因は改ざんされたのか――。
自決したのは当時45歳だった井置栄一中佐。ソ連軍の総攻撃が始まった39年8月20日、隊長を務めていた第23師団捜索隊は激戦地の一つだった「フイ高地」で包囲された。「頑強な抵抗」と評された戦いぶりを見せたが、水や食糧、弾薬の補給、通信すら絶たれる中、4日後に撤退を決断。フイ高地にいた23師団捜索隊759人中、269人が脱出した。
しかし23師団の師団長は会議で無断撤退と批判し、「自決を勧告するのが至当であると思う」と発言したと、23師団参謀の扇廣氏が著書「私評ノモンハン」で記した。米国の研究者、故アルビン・クックス氏が同様に参謀だった鈴木善康氏をインタビューした内容もそれを裏付ける。米・南カリフォルニア大学の東アジア図書館所蔵の音源には、「将校として一番まずかった人がいる。井置さん」「(師団長は)処置しにゃいかんというお考えを言っておられた」。鈴木氏は井置中佐に「戦場を離脱、任地を離れるとどういうことになりましょう」と説き、自決後には部下に「実情を話さんようにね」と話したと明かしていた。
井置中佐は日ソ停戦合意翌日の39年9月17日、銃で自決。遺族に届いた同10月9日付の電報には、満州(中国東北部)で死亡とあるだけだった。
妻のいくさんは師団長に「夫の…