戦後75年、追悼の場であり続けた忠霊塔の存在を通じて、あの戦争の継承について考えます。
並ぶ白いつぼ 戦死者ら1万4600人
高さ3メートルほどの木棚に、ぎっしりと並ぶ白いつぼ。そのうちの一つを手に取り、若木誉夫(よしお)さん(82)が愛(いと)おしげになでた。
「父ちゃん、父ちゃん。また来たよ」
中国で戦死した父彌市(やいち)さんの骨が入っているという。1938年5月、生まれる直前だった若木さんを見ぬまま逝った父だ――。
新潟県新発田市内に「納骨堂」や「越佐(えっさ)招魂社」と呼ばれる建物がある。陸上自衛隊新発田駐屯地前の西公園内に立ち、外観は寺院のようだ。戦死した兵士ら約1万4600人の霊をまつっているといい、若木さんの父も含まれている。
こうした施設は旧陸軍が「忠霊塔」と呼び、各地で建てた。県の「新潟県終戦処理の記録」(72年発行)によると、忠霊塔も陸軍墓地と位置づけることとした41年の規則改正が契機となったという。新発田の忠霊塔は「45年春落成」というが、44年5月20日付の新潟日報に「きのふ新発田忠霊塔招魂祭」という記事もあり、判然としなかった。
「陸軍墓地」(2014年、偕行社刊)という本にも説明があった。日中戦争の長期化で戦死者が増え、五十公野(いじみの)(今の新発田市内)にあった陸軍墓地が手狭になり、42年ごろ建設に着手したという。明治以来、新発田には陸軍歩兵第16連隊が駐屯し、日清・日露戦争の戦死者も五十公野の墓地に埋葬していた。
忠霊塔の建設時は地元の中等学校生が勤労奉仕の一環で墓地から墓石をリヤカーで運び、礎石に用いたそうだ。敗戦後、進駐軍の撤去要求に新発田町議(当時)らが反対し、忠霊塔は取り壊しを免れたという。
忠霊塔は、若木さんら戦没者の遺族らでつくる祭典委員会が管理してきた。集めた会費などから約350万円をかけて、屋根をふき替えたこともあったという。若木さんも地元の信用金庫を退職後、祭典委の事務局長として忠霊塔の鍵を預かってきた。
遺族らの祭典委、解散に「申し訳ない」
「祭典委員会の解散について」。この春、忠霊塔の前に一枚の紙が掲げられた。「ご英霊に対し誠に申し訳なく、お詫(わ)びしながらの決断でした」――。苦渋の思いが文面ににじんだ。
解散は、高齢化による会員減が理由だ。ピーク時に6500人いた会員は2500人。例年5月の祭典は多くの出店が並び、遺族が列をなした年もあったが、昨年は数十人がお参りしただけだった。
忠霊塔を誰が守るのか。祭典委は10年ほど前から議論を続け、公園を所有する新発田市に託そうと、若木さんらは毎年のように市に打診した。これに対し、市は「(憲法が定める)『政教分離の原則』があり、市以外の出身者も多くまつられている。お受けできない」と回答した。
当面、祭典の運営と忠霊塔の…