「悔しかろう」涙ぬぐう男性 広島の一日、各々の誓い

有料記事戦後75年特集

【動画】被爆75年となる「原爆の日」を迎えた広島
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 00:00 被爆75年の8月6日を迎えた。広島平和記念資料館にある地球平和監視時計の「広島への原爆投下からの日数」は「27393」を表示。「最後の核実験からの日数」は、米国が昨年2月に実施した未臨界核実験から数えて「539」となった。

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 00:15 広島市中区の湊始里さん(48)は、義父母ら10人と共に原爆死没者慰霊碑に手を合わせた。「若い人にも原爆の恐ろしさを知って欲しい」と、毎年子どもらと訪れる。次女の晴南さん(20)は「何げない日々が平和。来年も来ます」。

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 01:30 平和記念公園を訪れた広島市西区の会社員、袁亮(えんりょう)さん(36)は中国出身。「今は中国と米国が対立している。戦争は何も意味がない。両国も日本も、責任をもって二度と戦争を起こさないようにして欲しい」

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 03:00 「悔しかろう」。原爆死没者慰霊碑の前で3本のろうそくを立て、涙をぬぐう男性がいた。広島市中区の有馬一昭さん(76)。比治山付近で被爆し、家族も失い、3年前に肺がんで逝った友人を弔った。「拝んであげないといけない。ろうそくで照らしてあげないと」

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 03:45 広島市安佐南区の公務員尾崎恭三さん(58)はスーツ姿で原爆死没者慰霊碑に手を合わせた。母タケ子さんは救護のため市内に入って被爆。今年2月に他界した。体験を聞かなかったことを悔やんでいる。「月日が経つと風化する。自分も悲惨さ、平和の大切さを何らかの形で伝えてゆきたい」

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 04:00 平和記念公園内に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の方を向いて、こうべを垂れる高齢の男性がいた。そこには原爆で命を奪われた家族6人の遺影が登録されている。当時、廿日市の工場で働いていた鈴藤実さん(89)は、8月7日に広島市中心部の家に戻った。その日、秋に結婚が決まっていた一番上の姉と祖父母が他界。両親と次姉も8月のうちに亡くなった。自身は遠い親戚に預けられた。「寂しく悲しかった。6人が何か悪いことをしたか。いつも思う。核のない世界が私たち被爆者の願いです」

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 04:35 広島市中区の自営業蟬川公司さん(49)と小学4年の陽菜さん(9)は原爆死没者慰霊碑の前で一礼した。入市被爆した伯母を持つ公司さんは、陽菜さんが小学生になって以来、毎年6日にここを訪れる。陽菜さんは「原爆って人がつらいことになるんだよと世界に伝えたい」。この後、平和記念公園内に飾られる、学校で作った平和のポスターを見に行くという。

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 04:50 「あの悲惨な日からようここまでなった。戦争はあっちゃいけん。人の根っこを変えてしまいますけ」。娘と孫と一緒に原爆死没者慰霊碑を訪れた広島市南区の新谷芳之さん(89)は言った。修道中(現・修道高)に通っていた兄の聡明(ともあき)さんは建物疎開の作業中に被爆。焦土と化した街を1週間近く捜し歩いたが、見つからぬままという。

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 06:30 引き取り手が見つからない約7万人の遺骨が眠る原爆供養塔。広島市中区の木原玲子さん(83)が手を合わせていた。兄(当時18)はあの日、建物疎開に行ったきり帰って来なかった。毎月6日、欠かさずここを訪れる。「朝、見送った後ろ姿は今でも目に焼き付いとります」

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 07:25 原爆ドームそば…

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