電話越しの銃声「隠れて」と伝えたが…タイ騒乱と私の娘

有料記事特派員リポート

バンコク=貝瀬秋彦 染田屋竜太
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 「関係しただれもが、きちんと責任を取るべきだと思うんです」

 バンコクの市場内でコーヒー店を営むパヤオ・アカハードさん(54)は、娘のカモンゲードさんの遺影を手に静かに語り始めた。カモンゲードさんは10年前の5月、タイ騒乱で帰らぬ人となった。25歳だった。

 学校を出て准看護師になり、2004年12月にタイ南部を津波が襲った際には、すぐに現地に向かった。その後、勤務していた病院の経営悪化で仕事を離れ、当時、市場で花を売っていた母親を手伝いながら公務員を目指していた。

 10年の4月初旬、カモンゲードさんは花の仕入れに向かうバスの中で、大通りを埋めたデモ隊を目にする。中には高齢者や子どももいた。すぐに、デモ隊が設営していた医療ボランティアのテントの支援を申し出た。

 デモ隊は、当時のアピシット政権の退陣と解散・総選挙を求めるタクシン元首相の支持者たちだった。カモンゲードさん自身は政治的なデモに参加したことはなく、「お年寄りや子どもたちを助けたいという思いだけだった」とパヤオさんは振り返る。

 2月末に最高裁判所がタクシン氏一族の国内資産の約6割を没収するよう命じると、反発したタクシン派が3月半ばからバンコクで大規模なデモを開始。4月10日には治安部隊とデモ隊が衝突し、ロイター通信のカメラマンだった村本博之さん(当時43)が銃撃を受けて亡くなるなど、状況は緊迫の度を増す。それでも、カモンゲードさんは医療テントの支援を続けた。パヤオさんが心配すると、カモンゲードさんは「医療テントは安全だから」と繰り返した。

 タクシン派はバンコクの商業地区を占拠したまま、解散・総選挙などをめぐってアピシット政権と交渉を続けたが、妥協点は見いだせなかった。

 5月19日、治安部隊がデモ隊の強制排除に乗り出す。デモ隊の幹部は支持者らに解散を告げたが、銃声や爆音が響き、暴徒化した一部のデモ隊によって放火されたとみられる商業施設からは黒煙が上がった。逃げ惑ったデモ隊の一部は、カモンゲードさんらがいた医療テントがある寺院に逃げ込んできた。

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 この寺院は高齢者や子どもた…

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