公家出身キリシタン、山浦玄蕃の欄間か 処刑地の米沢で
山形県米沢市の田沢地区の民家で、江戸時代初期の公家出身キリシタン、山浦玄蕃(げんば)が制作したとみられる欄間が見つかった。「田沢郷土誌編集委員会」のメンバーが取り壊し予定の民家で見つけ、取り外して保存しているという。
同委員会によると、山浦玄蕃は京都の公家、四辻氏の一族として生まれ、元の名前は猪熊光則。米沢藩の初代藩主・上杉景勝の側室、桂岩院のおいにあたるという。後にキリシタンとなり、迫害を避けるために桂岩院の縁を頼り、1635年に妻子と米沢に逃れた。米沢藩は玄蕃をかくまって厚遇し、山浦家を継がせた。しかし、1653年に幕府から斬首命令が出ると、藩内の寺で処刑したという。
玄蕃は藩内で比較的自由に振る舞ったとされ、現在の川西町の名家に欄間を制作したことを示す史料も残る。大工道具のこてを使ったこて絵で、主にしっくいで形を作り、彩色したという。
田沢地区の欄間は2018年6月、委員会の清野春樹委員長が、地区で豪農と伝わる民家で確認。二つあり、ともに縦60センチ、横180センチで、表裏両面にこて絵があった。中国の伝説などを題材に、雪の中にタケノコが生える奇跡など、「神の恩寵(おんちょう)や復活をテーマに描いたと考えられる」(清野委員長)という。
絵の題材や、玄蕃がこて絵の…