悩んだ末、被爆の沈黙破った人 中には語れない悲しみも

有料記事戦後75年特集

聞き手・武田肇 聞き手・榎本瑞希 聞き手・三宅梨紗子 聞き手・佐々木亮
【動画】戦後75年。まだ間に合う。ことばを、かたちを、未来へ
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 広島と長崎に原爆が投下されてから、この夏で75年になります。朝日新聞は被爆60年にあたる2005年から今年まで5年ごとに、被爆者の方々にアンケートを依頼し、体験や思いを記事にしてきました。過去4回のアンケートすべてに答えてくれたのは155人。その方々に、次世代や世界へ伝えたいことを聞きました。

神戸(かんべ)美和子さん(82)=東京都町田市

 被爆をひた隠しにした時期が30年以上ありました。広島で被爆した私は、転校先の岡山県で「原爆さん」と呼ばれて仲間外れにされたのです。「ピカのことはもう誰にもいっちゃいけん」。泣いて帰った私に母が言い聞かせた言葉をずっと守っていました。

 転機は1982年。末期がんで入院した義姉(当時51)を幼い次男を連れて見舞った時、「黙ってちゃいかん。子どもがかわいいなら」と叱責(しっせき)されました。ともに被爆者だった母と義姉が残した「二つの遺言」。悩んだ末に選んだのは沈黙を破ることでした。

 今では年に10回程度被爆証言をしています。被爆者が直接語れる相手はごくわずか。被爆75年のアンケートでは、被爆体験が次世代にしっかり伝わっているかは「わからない」と書きました。それでも語るのはなぜかと問われれば、私はあの日何が起きたかをはっきり覚えている最後の世代だと思うからです。今年の8月6日も被爆証言をする予定です。(聞き手・武田肇)

浦部豊子さん(90)=長崎市

 75年前、15歳の私は同級生と一緒に、魚雷をつくる工場でねじを作っていました。当時、男の人は多くが戦争に行ってしまい、女性や子どもが武器をつくる工場で働いていたのです。

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 原爆が炸裂(さくれつ)した…

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