慰霊堂を毎朝きれいに 「あつかったろう」遺族の思い

有料記事戦後75年特集

木下広大
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 1359人が犠牲になった高松空襲から75年が過ぎた。空襲で両親を亡くし、ひとり生き残った高松市の太田幸子さん(81)は、犠牲者の慰霊堂を20年ほど前から毎朝掃除している。「あつかったでしょう」。あの日の記憶が消えることはない。

 1945(昭和20)年、太田さんは6歳で、栗林公園の北側に広がる同市中野町に住んでいた。

 6月29日、岡山が空襲にあった。夜明け前、高松にも警報が発令され、家族で逃げる途中、橋の上から、瀬戸内海の向こう側が真っ赤に染まるのを見た。

 7月4日未明。消防団員が空襲警報を呼びかける声を聞き、防空ずきんをかぶって屋外へ飛び出した。頭上を爆撃機が爆音をあげて飛び、道は泣き叫ぶ人でいっぱいだった。両親に手をひかれ、近くの山へ向かうが、人が多くて前へ進めない。家族で路上に座りこんでいると突然、意識を失った。

 どれくらい時間がたっただろうか。全身がぬれているのに気づいて目覚めた。見渡すと、わらでくるまれた死体の山の上にいた。隣に黒く焦げた塊が二つあった。両親だと思った。自分の体に付いたものをよく見ると、血だらけだった。

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 死体の山で必死に体を動かし…

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