「秀頼を公家に」願った秀吉の夢の跡 千田教授語る新城

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千田嘉博・城郭考古学者
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 5月12日に豊臣秀吉が最後に築いた京都新城の発見を京都市埋蔵文化財研究所が発表した。京都新城は文字史料では知られていたが、これまで研究上でも小説でもほとんど注目されてこなかった。その解明の端緒が考古学によって得られたのは大きな成果である。京都新城は秀吉が豊臣家の行く末をどれほど深く悩んでいたかを物語る城だと思う。今回の発掘はごく一部にとどまるので全体像はまだ謎に包まれているが、現時点で読みとれることを記したい。まずは京都新城築城までの動きを追ってみよう。

豊臣秀吉が死去の前年に築いた「京都新城」の遺構とされる石垣と堀の跡が初めて見つかりました。日本の城郭発掘における「今世紀最大の発見」から浮かび上がる天下人の思いを、奈良大学の千田嘉博教授(城郭考古学)が読み解きます。

 豊臣政権の「公」の拠点は、そもそも京都の聚楽第(じゅらくてい)だった。しかし1595(文禄4)年に城主で関白の地位を譲った豊臣秀次を、秀吉が追放して死に追いやると、聚楽第も破壊してしまった。当時秀吉は伏見指月(しげつ)に隠居城をつくって、徳川家康をはじめとした諸大名に石垣普請を命じていた。そこで秀吉は、この伏見城増改築して豊臣政権の「公」の城にすることにした。秀吉は聚楽第の周囲にあった諸大名の屋敷も伏見へ移転させた。

 ところが96(文禄5)年閏(うるう)7月に慶長伏見地震が起き、指月伏見城は大破。一命を取り留めた秀吉は地震のわずか2日後に、伏見木幡山に新たな伏見城を築くよう命じ、諸大名に大規模な石垣普請を再度割り当てた。このとき豊臣政権は対外侵略戦争・文禄の役の戦時下にあった。莫大(ばくだい)な戦費と、膨大な人的被害に苦しんでいた諸大名にとって、伏見城建設の負担は重かった。

 この頃、徳川家康がどのような気持ちで伏見城の石垣工事を分担したかを伝えるのが、94(文禄3)年の「徳川家康伏見城普請中法度」(徳川美術館蔵)である。そのなかで家康は、豊臣の武士との工事中のいさかいで家臣が殺されても我慢せよと命じた。太閤秀吉の命には家康であってもひたすら従うしかなく、ほかの大名たちであればなおさらだった。

 家康が法度を定めた文禄3年は秀次追放事件の前年だが、最晩年の秀吉は恐ろしい恐怖政治に突き進んでいた。秀次追放と切腹にとどまらず、秀次家族全員の処刑、秀次重臣衆の切腹、聚楽第の破壊と、秀吉の命令は冷酷を極めて人びとをふるえ上がらせた。豊臣政権崩壊のカウントダウンは確実にはじまっていた。

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 諸大名が分担して木幡山伏見…

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