(聞きたかったこと 広島)焼けた街 残った煙突

有料記事核といのちを考える

佐藤英法

 祖母と叔父を失い、父は大けがを負った。金箔(きんぱく)などを使った壁紙製造会社「歴清社」の相談役、久永洪(ひろし)さん(85)=広島市西区=は疎開先から自宅に帰り、惨状を目の当たりにした。10歳の夏だった。戦後は家業をつなぎ、時に惨禍のありさまを従業員に語ってきた。次の世代に伝えたい思いを聞いた。

 原子爆弾が投下された1945年8月6日。五日市町(現在の広島市佐伯区)に疎開していた。国民学校5年。朝礼が終わり、校庭から教室に向かう途中で、強い光がやってきた。小高い山の向こうから雲が波のように寄せてきた。「異様だった」と脳裏によみがえる。「ドカン」という音がした。先生が「伏せ」と叫び、訓練どおり耳と目を押さえた。起き上がると、窓わくは壊れ、ガラス片でけがをした子どもがいた。爆心地からは約10キロ離れていた。

 実家は金箔紙を製造していた。父清次郎さんは2代目。戦時下で原材料の入手が難しくなると、軍服の包装紙をつくるようになった。

 爆心地から約2キロの自宅と…

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