野村克也さん死去 ヤクルトなどで監督、ボヤキも人気

野村克也

 プロ野球歴代2位の通算3017試合出場、同2位の通算657本塁打を放ち、監督としても南海、ヤクルト、阪神、楽天の通算24年間で歴代5位の1565勝を挙げた野村克也(のむら・かつや)さんが11日午前3時半、東京都内の病院で虚血性心不全のため亡くなった。84歳だった。

 関係者によると、11日未明、東京都世田谷区の自宅浴室で野村さんが倒れているのを、家事代行の女性が発見し119番通報。心肺停止の状態で、搬送先で死亡が確認されたという。

 野村さんは京都府出身。峰山高から1954年、テスト生として南海に入団した。57年に初の本塁打王を獲得。63年に当時のプロ野球記録となるシーズン52本塁打を放ち、65年には戦後初の三冠王に輝いた。だが、同時期に巨人で活躍していた長嶋茂雄王貞治に比べ、パ・リーグは注目度が低く、「長嶋や王がヒマワリなら、おれはひっそりと日本海に咲く月見草」と話した。

 70年、選手兼任監督に就任。73年にリーグ優勝を果たした。77年9月、シーズン終了直前に解任されると、「生涯一捕手」を掲げて選手としてロッテに移籍。1年後に西武に移り、80年に45歳で現役を引退した。

 解説者時代には、野球中継でストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」で配球の読みを説き、評判となった。89年野球殿堂入りし、90年にヤクルトの監督に就任。データを重視する「ID野球」を掲げてチームを改革し、92年にリーグ優勝。93年も連覇し、日本シリーズで前年に敗れた西武に雪辱して初めて日本一に輝いた。95、97年にもヤクルトを日本一に導くなど、卓越した野球理論と巧みな戦術で名将の仲間入りを果たした。他球団を戦力外になった選手を何人もよみがえらせて、「野村再生工場」と評された。

 98年限りでヤクルトの監督を退任すると、翌99年から阪神の監督に。2001年オフに沙知代夫人の脱税問題の責任をとって辞任するまで、3年連続最下位に終わった。02年秋から05年までは、社会人野球シダックスの監督を務めた。

 06年に創設2年目を迎える楽天の監督に就任。09年には2位で初のAクラス入り、クライマックスシリーズ進出を果たした。手腕だけでなく、試合後の独特のボヤキもテレビのスポーツニュースで流れるなど人気を集めた。通算成績は1565勝1563敗76分け。敗戦記録は最多。

野村克也さんのあゆみ

1935年 6月29日、京都府網野町(現在の京丹後市)で生まれる

1954年 府立峰山高校からプロ野球・南海にテスト入団

1956年 正捕手に定着

1957年 30本塁打で初の本塁打王に輝く

1959年 日本一

1961年 29本塁打で2度目の本塁打王。この年から8年連続で本塁打王

1963年 当時のプロ野球記録(51本)を更新するシーズン52本塁打

1964年 日本一

1965年 打率3割2分、110打点、42本塁打で戦後初の三冠王を獲得

1969年 11月、南海の選手兼監督に就任

1970年 通算2千安打を達成

1973年 パ・リーグ優勝。日本シリーズは巨人に敗れる

1977年 9月、南海監督を解任される。ロッテへ移籍

1978年 12月、西武へ移籍

1980年 現役引退

1989年 野球殿堂入り。10月、ヤクルト監督に就任

1992年 セ・リーグ優勝。日本シリーズは西武に敗れる

1993年 セ・リーグ優勝。日本シリーズも西武を退けて制覇

1995年 セ・リーグ優勝。日本シリーズもオリックスを退けて制覇

1997年 セ・リーグ優勝。日本シリーズも西武を退けて制覇

1998年 ヤクルト監督を退任。10月、阪神監督に就任

2001年 3年連続の最下位。12月、阪神監督を辞任

2002年 11月、社会人野球・シダックスの監督に就任

2003年 都市対抗野球大会で準優勝

2005年 10月、楽天監督に就任

2007年 4位。球団史上初めて最下位を脱出

2009年 2位。球団史上初のクライマックスシリーズ進出。11月、監督退任

2020年 死去

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