箱根にあった選手養成「病院」 前回東京パラは4割輩出

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岩堀滋
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 1964年、東京では五輪に続いて、身体障害者の国際スポーツ大会が開催された。後に第2回パラリンピックとされた大会だ。日本は初参加で、53人が出場。そのうち27人が、神奈川県内から出場したことはあまり知られていない。

 当時は脊髄(せきずい)を損傷して車いすを使っている人たちが出場するスポーツ大会で、27人中19人は国立箱根療養所(小田原市風祭、現在の国立病院機構箱根病院)の患者が占めていた。

 当時の厚生省が国内から選手を50人出場させると決め、各都道府県などに協力を要請。箱根療養所は厚生省の管轄で、入院患者らが選手として養成された。

 敗戦からまだ19年。この大会には、交通事故などで脊髄を損傷した人だけでなく、戦争で負傷した人も出場した。競技は、アーチェリーと陸上、車いすバスケットボール、ダーチェリー(ダーツとアーチェリーの混合)、車いすフェンシング、スヌーカー(ビリヤードの一種)、水泳、卓球、パワーリフティングの9種目。今年の東京大会(22種目)の半分以下だった。

 日本パラリンピック委員会の資料によると、この大会で日本の選手が得たメダル10個のうち7個は、箱根療養所からの出場者を含む神奈川県勢が獲得したものだった。

 このとき大会関係者として参加した橋谷俊胤(はしたにとしつぐ)さん(78)=伊勢原市=は、陸上とパワーリフティングで補助員を務めた。移動時に選手の車いすを押したり、競技後の後片付けをしたり。「障害者スポーツを初めて見て、全く新しい感覚だった。その後の自分の人生を考えれば、居合わせた経験は大きかった」と話す。後に橋谷さんは、厚木市の県総合リハビリテーションセンターで障害者への体育指導を担った。

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 71年から83年まで箱根療…

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