東日本大震災当時の宮城県警本部長、竹内直人さん(61)は退職後、「警察謝恩伝道士」を名乗り、経験を語り続けている。警察職員全員が生と死の最前線に立ち向かい、手痛い失敗、悔悟もあった。その教訓を伝えることが使命と信じて。
部屋中の無線機と電話機が鳴っていた。県警の災害警備本部は3階の会議室に置かれた。前列の中央に本部長が座る。
午後3時20分ごろ、テレビが岩手県に津波が達したのを映し出した。竹内さんは気仙沼署長に電話で告げた。「本当に津波が来ます。くれぐれも注意して」
3時35分 南三陸町役場水没
3時44分 南三陸署3階まで水没 気仙沼署1階まで水没
4時17分 若林区役所に津波到達
メモで次々回ってくる情報は錯綜(さくそう)していた。「若林区役所」は「若林ジャンクション」の聞き違いだった。
無線は輻輳(ふくそう)状態が続く。現場の警察官は惨状を伝えようと必死だったという。無線機のボタンを押し続けても、順番が回ってこない。ようやくつながった無線は、いつまた途切れるかわからない。「至急、至急」。つい強い表現を使い、ときに伝聞であることを言い損ねる。未確認の情報が事実と化し、伝言ゲームのように拡散した――。
午後10時20分 仙台市荒浜で200~300の遺体発見との情報
「本当に現場の警察官からなのか?」。竹内さんは聞き直した。県庁での第4回災害対策本部会議が10分後に迫っていた。「現場からです」との答えを聞き、メモを手に部屋を出た。
会議には、各省の副大臣や審…
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