8畳ほどの研究室。天井まで届くキャビネットいっぱいに、封筒に仕分けされた手紙や書類、写真がひしめく。すべて、被爆時に脊椎(せきつい)を損傷し、車椅子で原爆の語り部を続けた渡辺千恵子(わたなべちえこ)さん(1928~93年)の遺品だ。長崎総合科学大の木永勝也(きながかつや)准教授(62)は3年前から学生とともに整理に取り組んでいる。
ナガサキノート:「のこす」の現場【4】
戦後74年。被爆者の高齢化が進む中、その体験を後世につなごうと奮闘する人たちがいる。さまざまな「のこす」営みの現場を訪ねた。
もともと渡辺さんと個人的なつながりのあった研究者が遺族から引き取ったものだ。縁あってそれを引き継いだ木永さんは「偶然が重なって残ったものだった」と言う。
渡辺さんらが長崎で結成した初の被爆者組織「長崎原爆乙女の会」が、1955年から発行した機関紙もあった。木永さんによると、まとまった形では残っていなかった資料だ。終戦直後の被爆者の苦悩が、手書きでつづられていた。
木永さんは学生時代、原水爆禁止世界大会で演説する渡辺さんを見かけたことがあった。「生きた歩みを示す資料だ」。定年まで分析を続けると決めたが、課題は山積みだ。撮影者が書かれていない写真、日付のない手書き原稿もある。すべてに目を通し、目録をつくるだけでもあと1年はかかるとみている。
長崎市発行の被爆者健康手帳保持者だけでも毎年1600人前後の被爆者が亡くなっている。一方、長崎原爆資料館への資料寄贈者は昨年7月からの1年間で9人。「『被爆者なき時代』には資料が大切になる。だが、遺品整理に当たるのが孫世代に移っていく中で、失われてしまうものも多いのではないか」と木永さんは資料散逸に危機感を抱いている。
■「見つからない」に落胆…