(ナガサキノート)世界で被爆証言、きっかけは孫の一言

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田中瞳子・25歳
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倉守照美さん(1944年生まれ)

 「記憶がないから何も語れない」

 倉守照美(くらもりてるみ)さんはそう思っていた。

 1歳の時、爆心地から約5・8キロの長崎市小瀬戸町で被爆した。「原爆が落ちた時は、防空壕(ごう)に避難してたとよね」。当時、自宅の裏山にあった防空壕にいた。両親から聞いたことは、それだけだったという。そして、倉守さんが被爆者であることは、亡くなるまで話してもらえなかった。倉守さんも、自身が被爆者であることを家族にもほとんど語ってこなかった。

 そんな倉守さんは10年ほど前、被爆者団体に所属し、平和活動を始めた。2018年には、NGO「ピースボート」が続けている「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」に参加し、25の港に寄港。各地で被爆証言をした。

 「記憶のある被爆者と、戦争を知らない次世代の架け橋になりたい」と、倉守さん。自身の体験を語らなかった倉守さんが、どうして語るようになり、伝えたいと思うようになったのはなぜなのか。その思いを聞いた。

 原爆が長崎に落とされた時、倉守さんの父親は長崎市飽の浦町の三菱造船所で働いていた。被爆から数年経ってから肺結核で入退院を繰り返すようになり、がんで亡くなったという。倉守さんが10歳の時だった。

 父親の容体について、母親からは「体の中にブルドーザーが入って引っかき回しているような状態」と聞いていた。「父が苦しむ姿を見せたくないんだろうと、子どもながらに察していました。だから私はお見舞いに行っていないんですよ」

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 父親の最後の入院は2~3年…

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