「卑弥呼の鏡」複製に挑む(ワザ語り)

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遠藤隆史
【動画】銅合金の鋳造を営む藤綱合金=遠藤隆史撮影

 中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に、こんなことが書かれている。

 《239年、倭(現在の日本)の邪馬台国の女王・卑弥呼が中国北部の魏に使いを送り、魏の皇帝から銅鏡100枚を与えられた》

 こうした記述を根拠に「卑弥呼の鏡」とも言われるのが、近畿を中心に各地で出土している銅鏡「三角縁神獣鏡」だ。

 昨年10月。文化財調査の権威でもある奈良県立橿原考古学研究所(同県橿原市)の付属博物館で、「黒塚古墳のすべて」と題した特別展が開かれた。

 同県天理市の黒塚古墳からは、1997年からの発掘調査で33面の三角縁神獣鏡が発掘された。特別展を前に同館が考えたのが、実際に鏡として使える三角縁神獣鏡を複製して来場者が手に取れるようにし、自分の顔を映してもらう企画だった。

 どの業者なら、銅鏡を複製できるのか。同館学芸課長の坂(ばん)靖(56)は「銅鏡の複製づくりのような仕事は機会が少なく、制作に手間もかかる。もうかる仕事ではなく、わざわざ複製づくりに挑戦してくれる業者は珍しい」。検討の末に白羽の矢を立てたのが、大阪府東大阪市高井田本通1丁目で銅合金の鋳造(ちゅうぞう)を営む藤綱合金だった。

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 そもそも鋳造とは、鋳型(いがた)に金属を溶かした「溶湯(ようとう)〈湯(ゆ)〉」と呼ぶ液体を流し、湯が冷えて固まるのを待って鋳型から取り出す加工法だ。

 藤綱合金の鋳型は、砂を固めてつくる。たとえば円形の鋳物をつくる場合、まず同じ形をした木製の模型を砂に埋め込み、しっかりと押し固めてから模型だけを抜き取ると、模型があった部分に空洞ができる。

 次に、銅に亜鉛や錫(すず)などを混ぜた銅合金の延べ棒を、1200度に達する炉で溶かして湯をつくる。できた湯を空洞部に流し、冷え固まった後に鋳型を崩せば、空洞部と同じ形の鋳物が取り出せる仕組みだ。

 銅は腐食しにくい性質があり、水に触れる部品への需要が多い。同社が手がける鋳物も船舶や水道に使うバルブが中心だが、銅鏡の複製制作の依頼を受けた社長の藤綱伸晴(36)は、すぐに挑戦を引き受けた。

 同館から銅鏡の模型を借り、まずは藤綱が砂の鋳型を作製。続いて湯の流し方や鋳型の固め方などの試行錯誤を繰り返して品質を高め、最後に鏡面を磨き上げ、1カ月がかりで2面の複製品を完成させた。

 藤綱は「上田社長の実績があったから、流れをくむうちの会社に仕事がきた。上田社長に感謝です」。

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 藤綱の言う「上田社長」とは、東大阪市で銅合金鋳造をしていた、上田合金の上田富雄のことだ。藤綱は2015年に藤綱合金を立ち上げるまで4年ほど、上田合金で職人をしていた。

 上田は地元では知られた名物社長だった。その名前を有名にしたのが、銅鏡や銅鐸(どうたく)の複製づくり。15年に79歳で急逝して会社が倒産するまで、多くの複製を神社や学校などに寄贈した。

 藤綱は「上田社長って、要は『いちびり』な人だったんですよ」と懐かしむ。

 いちびりとは、目立ちたがり屋でお調子者を指す関西弁。その言葉通り、もうからなくても、手間がかかっても、上田は複製づくりをやめなかった。ある銅鐸を見たときに感じたロマンが、上田をこの道に引き込んでいった。

「いちびり」奇跡の銅鏡

 1935年生まれの上田富雄は、大学卒業後に民間企業を経て、60年に鋳物職人だった父と一緒に上田合金を創業。主に船舶用のバルブ製造を手がけていた。

 藤綱合金の藤綱伸晴(36)…

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