うそであってほしい、今も…失った妻と娘へ祈る朝
穏やかな日常を突然奪った阪神・淡路大震災は17日午前5時46分、雨が降りしきるなか、発生から23年を迎えた。大切な人たちを失った遺族らは、各地の追悼の場や自宅で、手を合わせてそっと目を閉じ、それぞれの思いを伝えた。
神戸市中央区の東遊園地では雨で足元がぬかるむなか、未明から多くの人々が集まった。
「そっちで元気でやっているよね」。両親を亡くした神戸市教育委員会職員の山下准史(じゅんじ)さん(56)=同市東灘区=は、銘板の前で献花しながら、心の中で語りかけた。
自宅近くの実家は全壊し、父の金宏(かねひろ)さん(当時60)は死亡。母の芙美子(ふみこ)さん(当時58)は約半年後に亡くなった。神戸にいると悲しみに押し潰されそうになり、1999年から3年間、イランの日本人学校で教師として働いた。少しずつ心の整理がつき始め、帰国して勤めた小学校では震災の体験を児童に語ってきた。
毎年、東遊園地に足を運んでいる。1階が押しつぶされた実家、父の遺体に付き添い、体育館で過ごした日々――。目をつむると、あの時の情景を思い出す。「震災の風化は避けられない。でも、被災地に生きる人には、自分が生かされていること、そして、他者を思いやる大切さだけは忘れないでほしい」
神戸市中央区の会社員、中村明仁さん(45)は、竹灯籠(どうろう)に向かって手を合わせた。あの日、東灘区の実家が倒壊。母のヒサミさん(当時50)と、中学3年生だった妹の文恵(ふみえ)さん(当時15)とともに下敷きになった。自身は近くに住む人に救助されたが、2人は火事で亡くなった。
助け出せなかった自分を責め、不安や不眠に苦しめられた。震災から19年たって、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。治療のため、母と妹の死について何度も語り続けるうちに、震災の経験と向き合えるようになった。
若い世代への震災の記憶の継承を案じている。「自分のような経験をした人は口を閉ざしがち。でも、若い人は積極的に興味を持って、震災の経験に耳を傾けてほしい」と語った。
三枝宣子(のぶこ)さん(70)は香川県小豆島町から訪れた。長男秀彰(ひであき)さん(当時20)の名前が刻まれた銘板に手を合わせた。「家族は元気です。(天国で)おばあちゃんと元気にやっていますか」
甲南大学(神戸市)の学生だった秀彰さんは住んでいた同市東灘区のアパートが倒壊。1階が押しつぶされ、友人が助け出したが、家族が駆けつけた時には亡くなっていた。震災の2日前に帰省した成人式の時の写真が、遺影になった。
あの時の光景を、忘れることはない。「優しい子で、大好きな神戸で友達にも恵まれた。23年は長い年月だけど、あっという間だった」。涙があふれた。
神奈川県茅ケ崎市の会社員、有島由晃(ありしまよしあき)さん(52)も亡くなった妻(当時28)と娘(当時2)に追悼の祈りを捧げ、「震災がうそであってほしいという気持ちは当時のまま」と話した。
神戸市東灘区のマンション2階に住んでいた。建設関係の仕事で早朝に自宅を出て、大阪市内の職場に到着したころに地震が発生。娘は子ども部屋で、妻は近くの知人宅で亡くなっていた。
娘はアニメ「ムーミン」に登場する「ミイ」というキャラクターが好きだった。今も自宅のたんすの上に、娘の写真と一緒に人形を飾っている。町の雰囲気はどんどん新しく変わっていくが、震災のことは忘れてほしくない。追悼式典も、絶えず続けてほしいと願っている。「来年、また来るからね」。最後に、家族にそう語りかけた。
震災を直接経験していない人たちの姿もあった。
神戸市中央区の山内博佳(ひろか)さん(23)は震災の前年に愛媛県で生まれた。神戸市の大学に進学し、昨春から市内の小学校で教員になった。「震災を知らないからこそ、震災と向き合わないといけないと思った」と、初めて訪れたという。
「いま見ている光景、何がこの日あったのかを、しっかりと子供たちに伝えたい」。授業では少しでも多く震災をテーマにするつもりだ…