夏目漱石「吾輩は猫である」155

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 針作君は九拝であったが、この男は単に再拝だけである。寄附金の依頼でないだけに七拝ほど横風に構えている。寄附金の依頼ではないがその代り頗る分りにくいものだ。どこの雑誌へ出しても没書になる価値は充分あるのだから、頭脳の不透明を以て鳴る主人は必ず寸断々々(ずたずた)に引き裂いてしまうだろうと思の外、打ち返し打ち返し読み直している。こんな手紙に意味があると考えて、あくまでその意味を究(きわ)めようという決心かも知れない。およそ天地の間にわからんものは沢山あるが意味をつけてつかないものは一つもない。どんなむずかしい文章でも解釈しようとすれば容易に解釈の出来るものだ。人間は馬鹿であるといおうが、人間は利口であるといおうが手もなくわかる事だ。それどころではない。人間は犬であるといっても豚であるといっても別に苦しむほどの命題ではない。山は低いといっても構わん、宇宙は狭いといっても差し支はない。烏が白くて小町が醜婦で苦沙弥先生が君子でも通らん事はない。だからこんな無意味な手紙でも何とか蚊とか理窟さえつければどうとも意味はとれる。ことに主人のように知らぬ英語を無理矢理にこじ附けて説明し通して来た男はなおさら意味をつけたがるのである。天気の悪るいのに何故グード・モーニングですかと生徒に問われて七日間考えたり、コロンバスという名は日本語で何といいますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫する位な男には、干瓢の酢味噌が天下の士であろうと、朝鮮の仁参(にんじん)を食って革命を起そうと随意な意味は随処に湧き出る訳である。主人は暫らくしてグード・モーニング流にこの難解の言句(ごんく)を呑み込んだと見えて「なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。天晴(あっぱれ)な見識だ」と大変賞賛した。この一言(いちごん)でも主人の愚なところはよく分るが、翻って考えて見ると聊(いささ)か尤もな点もある。主人は何に寄らずわからぬものをありがたがる癖を有している。これはあながち主人に限った事でもなかろう。分らぬ所には馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高(けだか)い心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように吹聴するにもかかわらず、学者はわかった事をわからぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌(しゃべ)る人は評判がよくってわかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。主人がこの手紙に敬服したのも意義が明瞭であるからではない。その主旨が那辺(なへん)に存するか殆んど捕えがたいからである。急に海鼠(なまこ)が出て来たり、せつな糞が出てくるからである。だから主人がこの文章を尊敬する唯一の理由は、道家(どうけ)で『道徳経』を尊敬し、儒家(じゅか)で『易経(えききょう)』を尊敬し、禅家(ぜんけ)で『臨済録(りんざいろく)』を尊敬すると一般で全く分らんからである。但し全然分らんでは気が済まんから勝手な註釈をつけてわかった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである。――主人は恭しく八分体の名筆を巻き納めて、これを机上に置いたまま懐手をして冥想(めいそう)に沈んでいる。

 ところへ「頼む頼む」と玄関から大きな声で案内を乞(こ)う者がある。声は迷亭のようだが、迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。主人は先(さき)から書斎のうちでその声を聞いているのだが懐手のまま毫も動こうとしない。取次に出るのは主人の役目でないという主義か、この主人は決して書斎から挨拶をした事がない。下女は先刻(さっき)洗濯石鹼(シャボン)を買いに出た。細君は憚(はばか)りである。すると取次に出べきものは吾輩だけになる。吾輩だって出るのはいやだ。すると客人は沓脱(くつぬぎ)から敷台へ飛び上がって障子を開け放ってつかつか上り込んで来た。主人も主人だが客も客だ。座敷の方へ行ったなと思うと襖(ふすま)を二、三度あけたり閉(た)てたりして、今度は書斎の方へやってくる。

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