夏目漱石「吾輩は猫である」129

有料記事

[PR]

 以上に説くところを参考して推論して見ると、吾輩の考(かんがえ)では奥山の猿と、学校の教師がからかうには一番手頃である。学校の教師を以て、奥山の猿に比較しては勿体(もったい)ない。――猿に対して勿体ないのではない、教師に対して勿体ないのである。しかしよく似ているから仕方がない、御承知の通り奥山の猿は鎖で繫(つな)がれている。いくら歯をむき出しても、きゃっきゃっ騒いでも引き搔かれる気遣(きづかい)はない。教師は鎖で繫がれておらない代りに月給で縛られている。いくらからかったって大丈夫、辞職して生徒をぶんなぐる事はない。辞職をする勇気のあるようなものなら最初から教師などをして生徒の御守(おも)りは勤めないはずである。主人は教師である。落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。からかうには至極適当で、至極安直で、至極無事な男である。落雲館の生徒は少年である。からかう事は自己の鼻を高くする所以(ゆえん)で、教育の功果として至当に要求して然(しか)るべき権利とまで心得ている。のみならずからかいでもしなければ、活気に充(み)ちた五体と頭脳を、いかに使用して然るべきか十分の休暇中持て余まして困っている連中である。これらの条件が備われば主人は自(おのず)からからかわれ、生徒は自からからかう、誰からいわしても毫(ごう)も無理のないところである。それを怒る主人は野暮(やぼ)の極、間抜(まぬけ)の骨頂でしょう。これから落雲館の生徒が如何に主人にからかったか、これに対して主人が如何に野暮を極めたかを逐一かいて御覧に入れる。

 諸君は四つ目垣とは如何なる者であるか御承知であろう。風通しのいい、簡便な垣である。吾輩などは目の間から自由自在に往来する事が出来る。こしらえたって、こしらえなくたって同じ事だ。しかし落雲館の校長は猫のために四つ目垣を作ったのではない、自分が養成する君子が潜(くぐ)られんために、わざわざ職人を入れて結い繞(めぐ)らせたのである。なるほどいくら風通しがよく出来ていても、人間には潜れそうにない。この竹を以て組み合せたる四寸角の穴をぬける事は、清国(しんこく)の奇術師張世尊(ちょうせいそん)その人といえども六ずかしい。だから人間に対しては充分垣の功能をつくしているに相違ない。主人がその出来上ったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。しかし主人の論理には大(おおい)なる穴がある。この垣よりも大いなる穴がある。呑舟(どんしゅう)の魚(うお)をも洩(もら)すべき大穴がある。彼は垣は踰(こ)ゆべきものにあらずとの仮定から出立(しゅったつ)している。いやしくも学校の生徒たる以上は如何に粗末の垣でも、垣という名がついて、分界線の区域さえ判然すれば決して乱入される気遣はないと仮定したのである。次に彼はその仮定をしばらく打ち崩して、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのである。四つ目垣の穴を潜り得る事は、如何なる小僧といえども到底出来る気遣はないから乱入の虞(おそれ)は決してないと速定してしまったのである。なるほど彼らが猫でない限りはこの四角の目をぬけてくる事はしまい、したくても出来まいが、乗り踰える事、飛び越える事は何の事もない。かえって運動になって面白い位である。

     ◇…

この記事は有料記事です。残り368文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません