夏目漱石「吾輩は猫である」94

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 「しかし土用中あんなに涼しくって、今頃から暑くなるのは不思議ですね」「ほんとで御座いますよ。先達中(せんだってじゅう)は単衣(ひとえ)では寒い位で御座いましたのに、一昨日(おととい)から急に暑くなりましてね」「蟹(かに)なら横に這(は)うところだが今年の気候はあとびさりをするんですよ。倒行(とうこう)して逆施(げきし)すまた可ならずやというような事を言っているかも知れない」「なんで御座んす、それは」「いえ、何でもないのです。どうもこの気候の逆戻りをするところはまるでハーキュリスの牛ですよ」と図に乗っていよいよ変ちきりんな事を言うと、果せるかな細君は分らない。しかし最前の倒行して逆施すで少々懲りているから、今度はただ「へえー」といったのみで問い返さなかった。これを問い返されないと迷亭は折角持ち出した甲斐(かい)がない。「奥さん、ハーキュリスの牛を御存じですか」「そんな牛は存じませんわ」「御存じないですか、ちょっと講釈をしましょうか」というと細君もそれには及びませんとも言い兼ねたものだから「ええ」といった。「昔しハーキュリスが牛を引っ張って来たんです」「そのハーキュリスというのは牛飼ででも御座んすか」「牛飼じゃありませんよ。牛飼やいろはの亭主じゃありません。その節は希臘(ギリシャ)にまだ牛肉屋が一軒もない時分の事ですからね」「あら希臘の御話しなの? そんなら、そう仰っしゃればいいのに」と細君は希臘という国名だけは心得ている。「だってハーキュリスじゃありませんか」「ハーキュリスなら希臘なんですか」「ええハーキュリスは希臘の英雄でさあ」「どうりで、知らないと思いました。それでその男がどうしたんで――」「その男がね奥さん見たように眠くなってぐうぐう寐ている――」「あらいやだ」「寐ている間(ま)に、ヴァルカンの子が来ましてね」「ヴァルカンて何です」「ヴァルカンは鍛冶屋(かじや)ですよ。この鍛冶屋のせがれがその牛を盗んだんでさあ。ところがね。牛の尻尾を持ってぐいぐい引いて行ったもんだからハーキュリスが眼を覚まして牛やーい牛やーいと尋ねてあるいても分らないんです。分らないはずでさあ。牛の足跡をつけたって前の方へあるかして連れて行ったんじゃありませんもの、後ろへ後ろへと引きずって行ったんですからね。鍛冶屋のせがれにしては大出来ですよ」と迷亭先生は既に天気の話は忘れている。

 「時に御主人はどうしました。相変らず午睡(ひるね)ですかね。午睡も支那人の詩に出てくると風流だが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気(ぞっき)がありますね。何の事あない毎日少しずつ死んで見るようなものですぜ、奥さん御手数だがちょっと起していらっしゃい」と催促すると細君は同感と見えて「ええ、ほんとにあれでは困ります。第一あなた、からだが悪るくなるばかりですから。今御飯を頂いたばかりだのに」と立ちかけると迷亭先生は「奥さん、御飯といやあ、僕はまだ御飯を頂かないんですがね」と平気な顔をして聞きもせぬ事を吹聴(ふいちょう)する。「おやまあ、時分どきだのにちっとも気が付きませんで――それじゃ何も御座いませんが御茶漬でも」「いえ御茶漬なんか頂戴(ちょうだい)しなくっても好いですよ」「それでも、あなた、どうせ御口に合うようなものは御座いませんが」と細君少々厭味(いやみ)を並べる。迷亭は悟ったもので「いえ御茶漬でも御湯漬でも御免(ごめん)蒙(こうむ)るんです。今途中で御馳走(ごちそう)を誂(あつ)らえて来ましたから、そいつを一つここで頂きますよ」と到底素人(しろうと)には出来そうもない事を述べる。細君はたった一言(ひとこと)「まあ!」といったがそのまあの中(うち)には驚ろいたまあと、気を悪るくしたまあと、手数が省けてありがたいというまあが合併している。

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