夏目漱石「吾輩は猫である」81

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 細君の枕元には四寸角の一尺五、六寸ばかりの釘付(くぎづ)けにした箱が大事そうに置いてある。これは肥前の国は唐津(からつ)の住人多々良三平(たたらさんぺい)君が先日帰省した時御土産(おみやげ)に持って来た山の芋である。山の芋を枕元へ飾って寐るのは余り例のない話しではあるがこの細君は煮物に使う三盆(さんぼん)を用簞笥(ようだんす)へ入れる位場所の適不適という観念に乏しい女であるから、細君に取れば、山の芋は愚か、沢庵(たくあん)が寝室にあっても平気かも知れん。しかし神ならぬ陰士はそんな女と知ろうはずがない。かくまで鄭重(ていちょう)に肌身(はだみ)に近く置いてある以上は大切な品物であろうと鑑定するのも無理はない。陰士はちょっと山の芋の箱を上げて見たがその重さが陰士の予期と合して大分目方が懸(かか)りそうなので頗(すこぶ)る満足の体である。いよいよ山の芋を盗むなと思ったら、しかもこの好男子にして山の芋を盗むなと思ったら急に可笑(おか)しくなった。しかし滅多に声を立てると危険であるから眤(じっ)と怺(こら)えている。

 やがて陰士は山の芋の箱を恭(うやうや)しく古毛布(ふるゲット)にくるみ初めた。なにかからげるものはないかとあたりを見廻す。と、幸い主人が寐る時に解きすてた縮緬(ちりめん)の兵古帯(へこおび)がある。陰士は山の芋の箱をこの帯でしっかり括(くく)って、苦もなく脊中へしょう。あまり女が好(す)く体裁ではない。それから小供のちゃんちゃんを二枚、主人のめり安(やす)の股引(ももひき)の中へ押し込むと、股(また)のあたりが丸く膨(ふく)れて青大将が蛙(かえる)を飲んだような――あるいは青大将の臨月という方がよく形容し得るかも知れん。とにかく変な恰好になった。噓だと思うなら試(ため)しにやって見るが宜(よろ)しい。陰士はめり安をぐるぐる首っ環(たま)へ捲(ま)きつけた。その次はどうするかと思うと主人の紬(つむぎ)の上着を大風呂敷(おおぶろしき)のように拡(ひろ)げてこれに細君の帯と主人の羽織と襦袢(じゅばん)とその他あらゆる雑物(ぞうもつ)を奇麗に畳んでくるみ込む。その熟練と器用なやり口にもちょっと感心した。それから細君の帯上げとしごきとを続(つ)ぎ合わせてこの包みを括(くく)って片手にさげる。まだ頂戴(ちょうだい)するものはないかなと、あたりを見廻していたが、主人の頭の先に「朝日」の袋があるのを見付けて、ちょっと袂(たもと)へ投げ込む。またその袋の中から一本出してランプに翳(かざ)して火を点(つ)ける。旨(う)まそうに深く吸って吐き出した烟(けむ)りが、乳色のホヤを繞(めぐ)ってまだ消えぬ間(ま)に、陰士の足音は椽側を次第に遠のいて聞えなくなった。主人夫婦は依然として熟睡している。人間も存外迂闊(うかつ)なものである。

 吾輩はまた暫時(ざんじ)の…

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