林田健治さん(1938年生まれ)

 人に優しい人間でいたい。困っている人がいたら助けたい。その気持ちは持っているつもりでも、つい、自分自身のことに目が向いて、「私のほうが大変なのに」と不満を抱いたり、卑屈になったりすることがある。そんな時、長崎市油木町の林田健治(はやしだけんじ)さん(78)を思い出したい。

 7歳のとき、爆心地から約2キロの同市本原町(現在の三原)で被爆。原爆に家族を奪われ、自身も右半身を中心に大やけどをした。今も頭や足にケロイドが残る。「青春時代は悩んだこともあったし、母がいない戦後の暮らしはとても厳しかった」

 想像するのも苦しくなる経験。自分の過去を背負うだけでも大変なはずなのに、林田さんは各地の療養所で暮らす元ハンセン病患者と交流したり、フィリピンの子どもたちに奨学金を送ったりする活動を30年以上、続けている。「原爆に遭ったことで、いまの私がいる」。そう語ってくれた林田さんの半生を紹介する。

 家族が代々カトリックの林田さんは、生まれてすぐに洗礼を受けた。戸籍上は1938年1月1日生まれだが、結婚のときに調べると、前年の37年12月28日に洗礼を受けた記録が残っていた。さらに本当の誕生日は2日前の26日だったことがわかったという。

 教会に家族の記録が残っていることに興味を持ち、退職後に本格的に調べると、母のイチさんの家系は浦上四番崩れで四国の高松に流され、再び浦上に戻ってきたキリシタンの家系だということもわかった。

 林田さんはイチさんと三菱造船所に勤めていた父の金次郎(きんじろう)さんの9人目の子ども。「自分でも甘えん坊な末っ子だったと思う」。上の2人は早くに亡くなったが、6人の兄や姉は林田さんをかわいがり、長崎市竹の久保町(現在の宝栄町)の自宅から浦上天主堂のミサに手をつないで通った。学校に通う頃にはカトリックの教義の勉強もした。家族の中でも特に熱心だった母は厳しかったが、そのおかげで幼い頃から信仰は生活の一部だった。

 林田さんが城山国民学校(現・長崎市立城山小)の2年生だった45年夏、長崎への空襲は激しくなっていた。自宅は鎮西学院中(現在の活水中学・高校の場所)の運動場の西側にあったが、空襲に備えて自宅から30メートルくらい離れた土手のふもとに防空壕(ごう)代わりの小屋を設けていた。

 8月1日、大きな空襲があり、家族は小屋に避難した。学校に落とされたとみられる爆弾が爆発し、小屋は大丈夫だったが、爆風で飛ばされた大きな石が自宅の壁などを壊した。両親は「ここは危ない」と、林田さんらを本原町の知り合いの家に疎開させることにした。そこは、料理が得意だった祖父の源三郎(げんざぶろう)さんが食材の購入などを通して親しくなった同じカトリック信者の家だった。「祖父はすでに他界していたし、親戚でもないのに、住まわせてくれてありがたかった」と林田さん。原爆投下数日前の両親のこの判断で、命を今につなぐことになったと林田さんは思っている。

 8月9日、林田さんは空襲で被害を受けた長崎市竹の久保町の自宅から、同市本原町の知り合いの家に疎開していた。通っていた城山国民学校は夏休みで、1歳年上のいとこ山口(やまぐち)綱雄(つなお)さんと隣家の女の子の3人で庭で遊んでいた。飛行機の音が聞こえたが、遠かったので気にも留めなかった。

 だが、突然、辺り一面がピカっと目を射るような光に覆われた。何が起こったのかわからず、隣家の軒下に逃げ込んだ。すぐに屋根に火がつき、林田さんの肩の辺りに落ちた。びっくりして夢中で逃げ込んだ防空壕(ごう)で初めて身体の痛みに気づいた。見ると、半ズボンと半袖シャツから出ていた右半身を中心に全身に大やけどをしていた。頭からも真っ赤な血が出ていた。向かい合って遊んでいた綱雄さんも左半身を大やけどしていた。

 2人はほとんど同じ症状だった…

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