夏目漱石「それから」(第十七回)四の一

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 代助(だいすけ)は今読み切ったばかりの薄い洋書を机の上に開(あ)けたまま、両肱(りょうひじ)を突いて茫乎(ぼんやり)考えた。代助の頭は最後の幕で一杯になっている。――遠くの向うに寒そうな樹(き)が立っている後(うしろ)に、二つの小さな角燈(かくとう)が音もなく揺(ゆら)めいて見えた。絞首台は其所(そこ)にある。刑人(けいじん)は暗い所に立った。木履(くつ)を片足失(な)くなした、寒いと一人がいうと、何を? と一人が聞き直した。木履を失くなして寒いと前のものが同じ事を繰り返した。Mはどこにいると誰か聞いた。此所(ここ)にいると誰か答えた。樹の間に大きな、白いような、平たいものが見える。湿っぽい風が其所から吹いて来る。海だとGがいった。しばらくすると、宣告文を書いた紙と、宣告文を持った、白い手――手套(てぶくろ)を穿(は)めない――を角燈が照らした。読上(よみあ)げんでもよかろうという声がした。その声は顫(ふる)えていた。やがて角燈が消えた。……もう只(たった)一人になったとKがいった。そうして溜息(ためいき)を吐(つ)いた。Sも死んでしまった。Wも死んでしまった。Mも死んでしまった。只(たった)一人になってしまった。……

 海から日が上(あが)った。彼らは死骸(しがい)を一つの車に積み込んだ。そうして引き出した。長くなった頸(くび)、飛び出した眼、唇の上に咲いた、怖(おそ)ろしい花のような血の泡に濡(ぬ)れた舌を積み込んで元の路(みち)へ引き返した。……

 代助はアンドレーフの『七刑…

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