(ナガサキノート)戦時の記憶 にじむ日の丸

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山本恭介・28歳
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馬場すづ子さん(1921年生まれ)

 馬場(ばば)すづ子(こ)さん(93)=諫早市=は、夫の冨雄(とみお)さんの出征時に持たせた日の丸の寄せ書きを今も大切に持つ。ボロボロに傷んでいるが、被爆体験を語るときは必ず持って行き、見せている。戦争は決して正しくはない、ということを伝えるためだ。

 「オトウチャンバンザイ 死して帰れ君の為(ため)」。日の丸には、馬場さんと娘の洋子(ようこ)さんとの連名で、こう書いてある。親戚や近所の人たちの書き込みもあるが、ほかと比べても厳しい書きぶりだ。「当時は戦地に行くことを喜んだものだけれど、いま考えれば信じられない。戦時教育の影響ね。今の子どもは幸せ。この平和を続けてほしい」

 その戦争が原爆の投下を招いた。馬場さんは長崎市内から諫早に避難してくる被爆者の救護をして、被爆した。次々と運び込まれる被爆者は重傷だったが、薬もろくにない。水をあげることが精いっぱいで、救えない命ばかりだった。眠れない夜は今でも当時の光景を思い出す。

 1940年代前半。馬場さんは諫早市で、冨雄さんと娘の洋子さん、母のヤスさんらと5人で生活していた。冨雄さんは刑務所で刑務官をしていたが、生活は貧しかった。配給のイモや、わずかな米にたくさんの野菜を入れて食べていた。それでも、「欲しがりません、勝つまでは」と不平不満は口にせず、我慢をしていた。

 それに加え、毎日続く空襲。洋子さんをおぶって防空壕(ごう)に逃げる生活が続いていた。

 若い男性は次々と召集され、「次は冨雄さんの番では」という声が聞こえるようになってきた。

 「なんで来ないやろかね」と思っていると、冨雄さんにも赤紙が届いた。1942年頃。玄関に「出征兵士の家」と書いた紙を貼った。召集を受けたら死ぬものと考えていたが、名誉なことだと信じて疑わなかった。

 近所の人たちが集まり、千人針のお守りを作り、日の丸に寄せ書きをした。「万歳! 万歳!」と泣きながら送り出した。

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 冨雄さんが出征して数年後の…

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