〈海洋生物・ながぐつ日誌〉「農耕民族」のカサガイ

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南アフリカの磯での実験風景:桃色のペンキの内側はカサガイが寄り付かない処理がしてあるため緑色の藻が茂り放題。四角の外側は「カサガイ農園」が並ぶ。栽培している紅藻以外は“雑草”としてカサガイが取り除いている(C)Derek Keats

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カサガイが藻を歯で削って食べた痕跡。岩の表面に模様のように残る(C)Rosa Foulger

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セイヨウカサガイの外出記録。毎日ルートが違う。歯舌痕を拡大すると頭を左右に動かして藻を食べることがわかる。R.N.Hughes著「A Functional Biology of Marine Gastropods」(1986)より改変

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左:農業を営む南アフリカのカサガイ。和名はその殻の形から「チリレンゲガイ」。 右:カサガイ「農園」の模式図:家痕の周りに食用の紅藻を栽培し収穫する。若いうちは農園をもたず周囲に自生する藻を食べる=同上の本より改変

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蓑ガメさながらに殻に藻が繁茂したカサガイ(C)Joe Bater

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いろんなカサガイの殻。一番手前は、ロンドンの自然史博物館で販売されている銀コーティングされたカサガイのブローチ=筆者撮影

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海洋生物研究家・倉谷うららさん

■倉谷うらら(海洋生物研究家)

スローライフで長生きのチリレンゲガイ

■カサガイ氏との日々

 私には、忘れられないカサガイがいる。しばらく水槽で飼育したあと、みつけた磯に帰して十数年の月日が経った。もうとっくに天寿をまっとうしていることであろう。そう、前回でもご紹介したあのカサガイ氏だ。イギリスの大学で海洋生物学を学び始めたばかりのころ、野外実習の途中で彼と出会った。岩についているものを無理にはがせば弱らせてしまうが、カサガイ氏はちょうど「おにぎりサイズの石」にくっついていたので、迷わず持っていたバケツに入れ、持ち帰ったのがはじまりだった。最初は何という種類のカサガイなのかもわからなかった。水槽内での行動から、マイホームを持つパテラ・ヴルガータ(セイヨウカサガイ)という種類だとわかったときは、心拍数が上がった。どこにでもいる普通種だが、生態学にまつわる様々なことを教えてくれた特別な存在だ。

■鉄の歯でガリゴリ

 学生時代のある日の真夜中、『ガリガリ、ゴリゴリ』と、とても大きくて奇怪な物音で目が覚めた。一人暮らしをしていた私は、ドロボウだったら……、とハラハラしながら、近くにあったバードウオッチング用の三脚をブンブン振り回しながら、各部屋を見てまわった。どこにもヒトがいる様子はない。少し落ち着きを取り戻し、あたりを見まわしてみた。依然、鳴り響いている音は、どうやら、毎日眺めている205リットルの水槽が置いてあるあたりから聞こえてくる。『ガリガリ、ゴリゴリ……』。巨大なカピバラが堅いおせんべいでもカジッテいるような、部屋中に響く大きな音だ。

 この水槽にいるのは海の小さな生きものばかりのはずだが。こわごわ水槽を覗(のぞ)くと、いつもと変わらずイソギンチャクがゆらめき、ヤドカリたちがケンカしていて、エビが涼しげに泳いでいる。けれども確かに音はココからしていた。おそるおそる水槽の上部を覆うフタを外してみた。重いフタの裏側にはカサガイ氏がくっついていた。カサガイ氏は、水槽のなかでもとりわけおとなしい。日中は水槽のガラス面の定位置にピタッとくっついていて、微動だにしない。今晩、どうやらカサガイ氏はフタの裏側に生えている微細な「藻」を食べるため、水から出てフタによじ登っていたようである。

 目の前で例のすごい音がしはじめた。カサガイ氏は頭をゆっくり左右にふりながら、フタの裏側をなめている。この『ガリガリ、ゴリゴリ』という大きな音は、カサガイ氏の硬い歯が、プラスチック素材でできたフタの表面の細かい凹凸にあたったときの音であった。日ごろは水中で、ガラス面に生えた藻を舐(な)めていたので音は聞こえなかったのである。とにかく、この小さなカサガイの歯が、夜中にヒトを起こすほどの大きな音を出すことに驚いた。

 カサガイの歯は1日に1から5本の歯が後方からくりだされるように新調され、欠けたり、擦り減ったりしてもすぐに切れ味のよいものと置き換わる。多くのカサガイ類の歯舌(舌に付いている歯)は他の巻貝等に比べて本数が少ない分、非常に硬く、種類によっては、炭酸カルシウムの歯の中に鉄を多く含み、まるで農具の鎌が横一列に並んでいるようだ。この素晴らしく硬い歯によって、他の貝が食べない硬い海藻や大きな海藻までガリガリと削り取ることができる。

■農業にいそしむカサガイ

 大学では楽しみにしているR.N.ヒューズ先生の無脊椎(むせきつい)動物学の講義にカサガイの話が出てきた。フジツボを食べる凶悪なチヂミボラと対極的にカサガイの仲間は基本的にベジタリアン。さらに驚いたのは、カサガイのなかには「農業」に従事する種類がいるということだ。南アフリカのチリレンゲガイという、殻を上から見ると小さな洋ナシのような形をしたカサガイは、岩などに家=家痕(かこん)をつくり、その周囲を小さな農園にして主食の海藻を栽培する。これは単に自分の農園を縄張りのように守っているというだけではない。彼らはかなり本格的に農業をしている。自然に任せただけでは余計な海藻が繁茂してしまうので、まず他の海藻は雑草を抜くかのように歯でガリガリ取り除く。栽培地の日当たりも考慮する。さらに足から出る粘液には、藻の成長をたすける各種栄養が添加されている。「農園カサガイ」は、海藻に「肥料」まで与えているのだ。

■ライフスタイルと寿命

 チリレンゲガイの農園は自分の殻よりちょっと大きい程度。農園の中心に家があり、自分の足の下で手塩にかけて育てた藻を、ゆっくり自転しながら少しずつ食べている。自給自足、スローライフのお手本のようなカサガイである。農園から外出して藻を探す必要がないため、天敵と遭遇することも少なく、逃げるときに必要な粘液を出さずにすみ、エネルギー効率がよい。接着力は他のカサガイに比べて格段に高く、天敵からはがされることも少ない。農園では必要な量の紅藻しか栽培しないので、収穫は少なめで食べる量も少ない。他のカサガイと比べて成長がゆっくりだが、寿命は5〜6年と長い。

 チリレンゲガイ以外にも農業を営むカサガイが何種類かいるという。広大な農園を持つ別種のカサガイは、収穫が多いので成長のスピードが早い。だが、大きな農園の手入れや不法侵入者を見張る警備などの雑務に追われ、寿命はチリレンゲガイの約半分程度なのだそうだ。

■カサガイ氏の恋人

 イギリスは磯のカサガイ研究が盛んな場所である。海の一部からカサガイを全て取り除き、ネットをかけてカサガイを閉め出したところ、たちまち海藻だらけになったそうである。講義で写真を見たが、カサガイを取り除いた部分だけフサフサと海藻が茂っていた。

 我が家の水槽でも、この実験の『縮小版』を見ることができた。カサガイ氏を我が水槽にお招きして2カ月あまり、これまでツルンとしていたカサガイ氏の殻からは、鮮やかな緑色をした海藻がフサフサと生えてきた。水槽の表面に生えたケイ藻や海藻の芽はカサガイ氏がセッセと食べつくしたが、カサガイ氏の「せなか」の芽は誰にも食べられることなく、大きく育った……と、いうことらしい。

 殻の上にフサフサと生えてきた緑の藻を見ていたら、浦島太郎が玉手箱を開けて老人になった姿を連想した。なんだか急にカサガイ氏を磯に帰さないといけないような気持ちになった。水槽の中の2カ月は、寿命が短いカサガイにとっては長い月日に違いない。セイヨウカサガイは雌雄同体で、数年おきに性転換することがしられている。我が家に来る前、カサガイ氏の殻に藻は生えていなかった。非科学的な妄想かもしれないが、カサガイ氏には「せなか」をこまめにお掃除してくれる、気立ての良い恋人がいたのかもしれない。あまり長く水槽においておいたら、その間に野外の恋人が性転換していた……などという悲劇が起こらないだろうか? カサガイ氏が磯にいたときにくっついていた「おにぎりサイズの石」にはうっすら家痕がついている。そのことに気付かず、私は「おにぎり石」を水槽から取り出し、こともあろうに机の上で『文鎮』として使っていた。水槽にくっついているカサガイ氏を手ではがすのは難しい。この石を水槽に戻し、カサガイ氏が石のクボミにもどれば、もとの磯までお送りしようと心に決めた。翌日、カサガイ氏は「おにぎり石」の上に移動していた! さっそく車の助手席にのせ、エンジンをかけた。

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 くらたに・うらら 愛知県生まれ。海洋生物研究家。英ウェールズ大学バンガー校卒。著書に「フジツボ 魅惑の足まねき」(岩波科学ライブラリー、http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0074990/top.html)。所属学会は日本付着生物学会、日本動物学会、日本古生物学会。趣味は長靴をはいて潮だまりや干潟の小さな生きものを観察すること。特にフジツボ、イソギンチャク、付着性二枚貝、コケムシなどの「固着して生きる海洋生物」に果てしない魅力を感じる。

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