2011年7月25日10時29分
■サイドストーリー
甲子園を目指して、全国で球児が戦いを繰り広げていますね。
僕自身、3年の時は春夏連続で甲子園に出ることができました。思い出と言えば、やはり甲子園……と思われるかもしれませんが、そうじゃないんです。つらかった練習の日々のほうがより鮮明な思い出なんです。
当時の広島県では広島商と広陵が名門でしたが、僕のいた広島工も強くなりはじめたころ。部員は100人ほどいました。
グラウンドを使えるのはほんの一部で、1年からそこに入れるのは3、4人。僕も含めた大多数は、校内のテニスコート1面分の空き地でダッシュと腹筋を繰り返すのです。朝に1時間、午後は授業が終わる3時過ぎから9時ごろまで。
ボールなんて触れないし、たまにグラウンドに入れてもらっても球拾い。同級生は次々に辞めていきました。中学時代の部活とは練習量が違った。とにかく体力的につらかった。
やっとグラウンドに入れるようになったのは2年になってからでした。そこからまた大変です。投手だけで10人以上。ブルペンになかなか入れず、アピールできる場もない。上手投げだったのを、やや下手から投げ込むフォームに変えたのはそのころです。
同学年に、後に日本高校選抜に入る上田俊治というすごい投手がいました。彼は本格派。だから彼とは違う技巧派にならなきゃ生き残れない、と気付いたのです。まず2番手を目指そうというわけです。
コントロールは悪くなかったので、監督から「打撃投手に」と指名がかかった。どうしたら気持ち良く打ってもらえるかを考えました。すると、その逆をやれば、打たれないということに気づいた。投球術を覚えたんです。3年になると、2番手の座をがっちりつかむことができました。
3年の夏の広島大会で、思わぬアクシデントで出番が回ってきました。上田が盲腸になったのです。「自分がやらなきゃだめだ」と思い、決勝までの6試合中4試合に登板、甲子園出場に貢献することができました。困難を乗り越え、いつの間にか力がついていたんです。
今でも当時の仲間と会うと、甲子園に出た「栄光」の話はほとんど出ません。つらかった練習のこと、怖かった監督にこっぴどく怒られたこと、うまいことサボった時のこと……。人間って楽しいことより、苦しかったことだけ覚えているような気がします。
球児に言いたい。負けて悔しかったり、練習がつらかったりするでしょうが、後々、そのすべての経験が自分をつくっていく、ということを。そして、ともに苦しんだ当時の仲間と、いずれ楽しく酒が飲めるようになる、ということも。
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たかつ・しんご 1968年11月、広島市出身。広島工高から亜細亜大を経て91年にドラフト3位でヤクルトに入団。サイドスローからの鋭いシンカーを武器に、抑え投手として4度の日本一に貢献した。最優秀救援投手にも4度輝き、通算286セーブは6月16日に岩瀬仁紀(中日)に更新されるまで日本プロ野球記録だった。大リーグのホワイトソックスなどでも活躍し、昨季は台湾でプレーした。今季から、上信越と北陸で活動する独立リーグ・BCリーグの新潟アルビレックスBCに移り、活躍を続けている。