京都・葵祭のヒロイン「斎王代」って? 今年は壬生寺の長女松浦さん

西崎啓太朗
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 5月15日にある京都三大祭りの一つ、葵祭(あおいまつり)のヒロイン「斎王代(さいおうだい)」は、壬生(みぶ)寺(京都市中京区)の長女で会社員の松浦璋子(あきこ)さん(22)に決まった。そもそも斎王代とは何か。源氏物語にも描かれている葵祭の歴史のなかで、斎王代の始まりは意外にも戦後のことだ。

 葵祭は世界遺産の上賀茂神社(北区)、下鴨神社左京区)の例祭で、正式には賀茂祭。祭りに参加する人たちがフタバアオイの葉を身につけることから葵祭と呼ばれるようになった。

 春日大社奈良市)の春日祭、石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市)の石清水祭と並び、天皇が使いをおくる三大勅祭(ちょくさい)にも数えられる。

 京都三大祭りでは、7月の八坂神社(東山区)の祇園祭が869年、10月の平安神宮(左京区)の時代祭が1895年に始まったのに対し、葵祭の歴史は6世紀の欽明天皇の時代にさかのぼる。平安時代には「祭り」といえば葵祭をさした。

 平安時代、未婚の内親王や女王が「斎王」として賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)に奉仕した。祭りでは、まず斎王は鴨川で身を清める「御禊(ぎょけい)の儀」に臨んだ。その後の「路頭(ろとう)の儀」では、住まいを出た斎王が勅使の行列と合流し、賀茂社に向かったという。

 源氏物語に葵祭が描かれる。主人公・光源氏が斎王の列に加わることになった。その姿を見ようと、牛車に乗った正妻の葵上と愛人の六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が場所を争う。「車争い」で知られるこの場面は路頭の儀ではなく、御禊の儀だ。

 斎王は、武家政権の鎌倉時代に途絶えた。祭りでは、戦国時代に勅使の派遣も中断した。

 明治に入り、1884年に再び勅使が行列に加わるようになったが、第2次世界大戦中の1943年から約10年間は行列自体ができなかった。京都大の歴史学者らが平安時代の祭りの姿を取り戻し、戦後の京都観光の回復もめざそうと考えた。

 56年、斎王の代わりとして「斎王代」を復興させた。翌57年からは「行儀作法が身についていて、着物を着慣れている未婚の女性」が選考基準になった。斎王代が着る十二単(ひとえ)は重さ約30キロという。

 66代斎王代を務める松浦さんは龍谷大平安中学・高校時代、吹奏楽部でトランペットを吹いた。野球部の応援で甲子園でも演奏した。

 追手門学院大学に進み、オランダに半年間留学した。周辺国への一人旅も楽しんだ。この春、大学を卒業し、旅行会社のJTBに入った。

 父の俊昭(しゅんしょう)さん(56)は、新選組ゆかりの壬生寺の貫主(かんす)(住職)。壬生寺は、鑑真(がんじん)が開いた奈良の唐招提寺を総本山とする律宗に属する。祖父の俊海(しゅんかい)さんは唐招提寺の長老(住職)も務めた。

 壬生寺には約700年前から続く国の重要無形民俗文化財壬生狂言」が伝わる。松浦さんも壬生狂言が好きで、伝統文化の継承に関心がある。

 「京都で生きてきた経験や留学経験を生かし、京都や日本の伝統の良さをもっと海外の人に知ってもらいたい。生まれも育ちもお寺ですが、どこで生まれたかは関係なく、一人の社会人として真剣に取り組むことが大切だと考えています」

 5月4日に下鴨神社である禊(みそぎ)の儀が斎王代として最初の行事だ。15日の路頭の儀では、腰輿(およよ)と呼ばれる輿(こし)に乗り、午前10時半に京都御所を出発。下鴨神社、上賀茂神社へ進む。(西崎啓太朗)

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