戦国の城、荒砥城と鉢形城を訪ねて 近世の城とは異なる実用本位の姿

有料記事れきしあるき

編集委員・宮代栄一
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 「お城」というと、世界遺産にもなった姫路城兵庫県姫路市)に代表されるような、真っ白な壁の建物に石垣――といったイメージを思い浮かべる人が多いのではないか。しかし、あれは近世の姿。各地で武将たちが覇を争った戦国時代の城の多くは、もっと実用本位の存在だったという。一体、どんな姿だったのだろうか。

思い切った再現 荒砥城

 最初に訪れたのは、長野県千曲市にある荒砥城だ。東京駅から新幹線に80分ほど乗り、上田駅でしなの鉄道に乗り換えて15分ほどで戸倉駅に着く。市歴史文化財センター主査の平林大樹さんが出迎えてくれた。

 城があるのは、駅から4キロほど離れた千曲川の対岸。ふもとには美肌効果で知られる戸倉上山田温泉がある。

 「山の上のちょっと不便な場所なんですけど、宿にチェックインしてすぐとか、帰る前とかに見に行く湯治客の人も多いんです」と平林さん。カーブの多い山道を車がのぼりきると、そこが、すぐに城跡だった。

 細い道を歩いていくと、復元された櫓門(やぐらもん)が見えてくる。門の上は屋根もなくむき出しのままで、壁には矢を放つ防御用の隙間「狭間(さま)」が設けられている。

 城を囲んでいるのは堀ではなく、高さ2メートルほどの丸太の杭列。10分ほど歩くと、奥まった場所に、板葺(ぶ)きで屋根に石を載せた小屋のような建物が見えてきた。ここが城の主郭に相当する場所らしい。

 現在の城が造られたのは1995年。合併前の旧上山田町の「ふるさと創生事業」として、愛知県豊田市の足助(あすけ)城などをモデルに再現された。「当時はコンクリート造りの模擬天守の建造がはやっていて、戦国時代の山城の復元はあまり例がありませんでした。ここには昭和に入って遊園地や動物園などが造られ、遺構の一部が壊されていたため、思い切った再現が行われた面もあるようです」と平林さん。

 記事の後半では、北条氏康の息子、氏邦が城主を務めた埼玉県の鉢形城を訪ねます。

 荒砥城は北信濃の戦国大名

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