午後2時46分を境に変わった「日常」 8人の言葉でたどる3.11

東日本大震災取材班
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 「あなたはあの日、何をしていましたか」。2011年3月11日の朝、一人ひとりがかけがえのない日常を送っていた。東日本大震災から13年。8人の言葉を元に「あの日」を振り返ります。(年齢は2024年3月現在)

宮城県石巻市にいた渡部幸子さん(65)

 13年前の3月11日午前3時は、自宅の机でテスト勉強をしていた。勤めていた会社がリーマン・ショックで倒産。18歳の若者に交じり、介護職を目指して専門学校に通っていた。

 「記憶力が衰えちゃって大変だったわ」

 前日には、父が前立腺がんの手術を終えたばかりだった。午前中、母の手伝いのため、授業の合間を縫って実家を訪れた。天気の良い洗濯日和。2階の窓際に布団を干しながら、父の退院の日を楽しみにしていた。忙しいけれど、日常にはささやかな幸せがあった。

福島県大熊町の木村紀夫さん(58) 震災前

 「いってらっしゃいぐらい、言ったのかな」

 実はあの日の朝のことを、ほとんど覚えていない。当時小学1年生だった次女の汐凪(ゆうな)さんは、小学4年生だった姉の舞雪(まゆ)さんと一緒に登校したはずだ。いつも午前7時前に家を出ていたはずだったから、あの日も、そうだったと思う。友達が大好きで、車いすの同級生を手伝うなどしっかり者だった汐凪さんは「学校に行くのが楽しくて仕方ない。そんな子でした」。

 小さい頃からちゃっかりした一面もあった。3歳の時、七五三の直前に、姉の舞雪さんが、伸ばしていた汐凪さんの髪の毛を短く切ってしまったことがあった。「イベント好きだった妻がかんかんに怒ってね。舞雪が叱り飛ばされた後に『汐凪にお願いされて切った』と打ち明けた。汐凪はしれっとしていて。うまいこと世の中を渡っていきそうだなと思いましたね」と木村さんは笑う。

 3月11日は金曜日だった。朝、あまたのかけがえのない人たちの、日常が通り過ぎていく。

岩手県大船渡市の佐々木淳さん(53)

 午前8時。ホタテ養殖漁師の佐々木さんは、大船渡市の小石浜漁港を出港した。養殖棚に着くと、ロープで海につり下げた貝を漁船に引き揚げる。ホタテに栄養が十分に行き渡るよう、表面についたホヤなどを手作業で取り除いていく。丁寧に育てられた三陸産の「恋し浜ホタテ」は全国的なブランドとして人気が高い。

 「今年のホタテは出来がいい」。夏の出荷に向けて期待を膨らませていた。海はうねりがなく穏やかで、佐々木さんの船を含めて4隻が出港していた。気温は零度以下だったと記憶している。港には、雪が舞っていた。

仙台市にいた神林拓真さん(22)

 小学3年生だった神林さんは午前中、高校の調理室にいた。高校生と一緒にみそを造る授業の一環。その日は半年前に仕込んだみそを持ち帰る日だった。

 「ずいぶん前に造ったやつがこんな風に出来るんだ。今日は家でこれを食べよう」

 午後は小学校に戻った。帰りの会では、クラスメートが新学期から転校することを知った。驚きと寂しさを覚えている。

宮城県名取市にいた女性(48)

 「早く帰らないとだめよ」

 小学校教諭だった女性は、担任をしていた2年生の教室で下校指導をしていた。いつもと変わらない笑い声が、耳に残っている。

 午後2時46分。突然、大きな揺れが来た。窓から外を見ると、小学校のプールが大きく波打っているのが見えた。

岩手県陸前高田市の細川哲郎さん(79)

 岩手県大船渡市での会議後に揺れを感じ、大急ぎで経営していたガソリンスタンドがある陸前高田市に戻った。

 店内のラジオから「波が防波堤を超えた」と聞こえる。遠くを見渡すと、山の間を流れる気仙川から、黒い壁が盛り上がっていくのが見えた。

 すぐに津波だと分かった。

 山肌に津波が衝突して土煙が上がるのが見えた。従業員らと高台方面に逃げる。ガソリンスタンドは、押し寄せたがれきで埋もれた。

福島県いわき市の及川和英さん(52)

 同じころ、いわき市の久之浜漁港にも、津波の到達時刻が迫っていた。造船所で漁船の改造をしていた及川さんは、両親とともに急いで高台に避難した。経験のない大きな揺れに「慌ててしまった」。工場で飼っていた犬の大五郎を置いていってしまった。工場は津波にのまれ、大五郎も亡くなった。

 未曽有の地震と津波は、日常とともにかけがえのない命も奪った。

福島県大熊町の木村紀夫さん(58) 震災後

 13年前の朝、いつも通りに2人の娘を見送った木村さんは、津波で汐凪さんと妻の深雪(みゆき)さん、父の王太朗(わたろう)さんを亡くした。東京電力福島第一原発事故の影響で捜索ができず、汐凪さんの遺骨の一部が見つかったのは、震災から5年以上が経った、16年の冬のことだった。

 もし、震災前の日常に戻れるなら。

 「大きな地震があったときにどうするべきか、しっかり汐凪に伝えておくべきだった」。地震の時、児童館にいた汐凪さんは、車で迎えに来た王太朗さんと自宅に戻り、津波にのまれた。

 「もし津波が来るかもしれないことを教えていたら『じいちゃん、行っちゃダメだ』って止めたんじゃないかと思う」。その思いは、いま語り部として災害対策の大切さを伝えている木村さんの原動力になっている。「汐凪がいるから、語れる場がある。彼女が自分で、経験を語っているような気がします」

岩手県大船渡市にいた新沼正寿さん(49)

 陸前高田郵便局に勤めていた新沼さんはたまたま仕事が休みで、子どもと遊んで過ごしていた。高台に建てていた自宅に被害はなく、避難もしなかった。

 数日後、郵便局の同僚が津波にのまれ、13人が犠牲になったことが分かった。

 13年後の24年3月10日、新沼さんは陸前高田市の慰霊碑を訪れていた。花を手向け、被災者刻銘碑に刻まれた同僚の名前を目で追う。

 「当日出勤だったら自分も死んでいたと思う。生と死の差は何だったんだろうと、何度も、何度も考えさせられた。生かされた命。これからも生き方を大事にしていきたい」(東日本大震災取材班)

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