時代動かした「生麦事件」 異文化の出会い、不運が重なった悲劇

有料記事れきしあるき

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薩英戦争のきっかけに

 あまりに無礼、もはや我慢の限界だ――。いきり立った侍は、刀を抜いた。目の前には、馬に乗った4人の外国人。そのうちの一人に切りつけると、周りの侍たちも続いた。1862年8月21日午後2時ごろ、天気は晴れ。江戸湾を望む松並木の東海道に、血しぶきが飛んだ。

 「生麦事件」は、幕末史上最も有名な事件の一つだろう。東海道中、生麦村(現在の横浜市鶴見区)で薩摩藩大名行列に出くわした英国人4人が襲われ、1人が死亡、2人が重傷を負った。この事件をきっかけに薩英戦争が起き、列強との力の差を感じた薩摩は近代化をすすめ、倒幕へと向かう。生麦事件は時代を大きく動かしたともいえる。だが、そのわりには教科書に詳しく書かれていない。

 私はいつも疑問だった。無礼とはいえ、言葉も分からない外国人をなぜ殺さなければいけなかったのか。160年以上前の事件の詳細が知りたくて、横浜へ向かった。

当時のマナーは下馬

 「攘夷(じょうい)の流れではなく、偶発的に起きた事件だと思います」。横浜開港資料館の主任調査研究員、吉崎雅規さん(49)が説明してくれた。幕末に吹き荒れた攘夷思想による襲撃というよりも、異なる文化を持つ集団による悲劇的な衝突。それが生麦事件ではないかと吉崎さんは考える。

 当時、大名行列に遭遇したら、敬意を表するのがマナーだった。騒ぎを起こすのはもってのほかで、乗馬していたら下馬するものだった。不作法があれば、切られても仕方ないと考えられていたし、大名行列の責任者は切腹の可能性があった。

 「慣習に加えて、当時の時代背景も考慮しなければいけません」と吉崎さん。薩摩藩主の父で実権を握っていた島津久光は、幕政改革を進言しようと江戸を訪れていた。進言はある程度受け入れられ、その帰り道で事件は起きた。藩士たちはいつもより威勢が良かっただろう。

 だが、そんなことは英国人は知るよしはない。そう思うが、吉崎さんは「慣習については知る機会はあった」と言う。

 襲われた英国人のうち、亡くなったのは商人リチャードソン。彼は上海で財をなして帰国途中、観光目的で日本に寄った。負傷したマーシャルとクラークも商人で日本に住んでいた。4人の中で間一髪襲撃を免れたのは、マーシャルの義妹、ボロデール。香港から観光目的で来日していた。当時外国人は横浜の居留地から10里(約40キロ)以内は自由に行動ができた。4人は、居留地から約10キロ離れた川崎大師平間寺を目指していた。外国人たちの定番の観光コースだったという。

記事の後半では、「現場検証」をします。道幅や当時の馬種などから分かることがあります。

 日本在住のマーシャルらはマ…

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