選手の主体性を重んじ、過剰な勝利至上主義を避ける傾向が増している高校野球界。明徳義塾(高知)を30年以上率い、甲子園に春夏通算37回(中止になった2020年春の選抜大会を含む)の出場歴を誇る馬淵史郎監督(68)は、時代の流れをどのように感じているのか。
36歳から「ヒール役やな」
明徳義塾の監督になったのは1990年8月1日、34歳の時だった。
明徳に来るまでは社会人野球・阿部企業の監督をやっていて、日本選手権で準優勝できた。
「もう十分やって野球から離れよう」と思った時。その阿部企業に明徳出身の選手がいた縁で、当時の副校長から「コーチを探しているから来ないか」と誘われた。32歳だったかな。
普通に働こうと思ってたけど、「ノック1回でもいいから」と行ったのがきっかけだった。まさか監督までやって、34年目になるとは思わなかった。
就任直後の90年秋の大会はすぐ負けた。それが悔しくて、猛練習したんよ。
翌年の91年、初めての夏の大会でいきなり甲子園に行った。高知大会の初戦は相手が伊野商だった。9回2死走者なしで、負けとった。
ベンチから「もうあかん」と思って見てたら、1番打者がソロ本塁打。2番がポテンヒット、3番が四球、そして4番の津川力(NPB審判員、元ヤクルト)が逆転サヨナラスリーランを打ちよった。
これが、俺の高校野球生活のスタートなんよ。
翌年の92年夏も甲子園に行って、星稜(石川)との初戦で松井秀喜(元巨人、ヤンキースなど)の5打席連続敬遠があった。あれが36歳。そこから、俺はヒール役やな。
「甲子園でさわやか、俺にはできない」
甲子園は春夏合わせて54勝…