戦争中に軍の工事で成長した建設会社 働かされた徴用工は被爆で苦難

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武田肇
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現場へ! 戦時労務動員の記憶①

 太平洋戦争のころ多くの朝鮮半島の出身者が、日本本土の労務に動員された。韓国では日本企業に損害賠償を求める動きもある。群馬県では亡くなった人らの追悼碑が撤去され、歴史継承を巡る議論が起きた。日本のために働かされた人たちの痕跡が全国に散らばるなか、四国にまつわる企業や場所を訪ねた。

 かつて高松市万葉集にも登場する美しい名前を冠した建設会社があった。「玉藻(たまも)組」だ。1928(昭和3)年に設立され、太平洋戦争中に日本軍の土木工事を請け負って成長したが、終戦後まもなく姿を消した。

 社長を務めた平井太郎は戦後、参院議員を4期務め、四国新聞の社長や西日本放送の創業者になった。女婿の卓志も参院議員を5期務め、孫の卓也(66)は8期目の衆院議員だ。

 そんな一族のルーツとなった…

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