決勝は移り、試合は減った でも、山あいの球場はいまも青春の舞台

岡田健
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 始まりは球場ではなかったグラウンドは、いつしか女子高校野球の「聖地」と呼ばれるようになった。

 2023年7月、第27回全国高校女子硬式野球選手権大会があった兵庫県丹波市の「つかさグループいちじま球場」。決勝トーナメント1回戦の打席に立った島根中央の佐野栞和(かんな、2年)は、眼前の景色にちょっと驚いた。

 「外野の間を抜けたら、すぐにランニング本塁打だ」

 広さは本塁から中堅まで122メートル、両翼まで105メートル。阪神甲子園球場(同県西宮市)が中堅まで118メートル、両翼まで95メートルなので、それより一回り大きい。

 なぜ、こんなに大きな球場が丹波山地の山あいに現れたのか。

サッカー場になっていた、かも

 話は20年以上前にさかのぼる。

 いちじま球場は同県市島町(現・丹波市)総合運動公園の一施設として、1998年に着工された。名称は「多目的グラウンド」。1周300メートルの陸上トラックや少年サッカー場にもなる、という触れ込みだった。

 全国高校女子硬式野球連盟の事務局長・堀秀政(79)は、町からグラウンドのこけら落としイベントを考えるよう頼まれた。開場を翌年に控えた99年春ごろ、と記憶している。

 町で酒小売業を営んでいた堀は、甲子園出場経験もある福知山商(現・福知山成美、京都府)野球部の元監督。市島町内で軟式野球チームを主宰し、町を巻き込んでのイベントも企画してきた。

 真っ先に思いついたのが、女子高校野球だった。東京で行われていた夏の全国選手権大会の運営を手伝っていたという縁からだった。

 春の「選抜大会」として開催することになり、2000年4月の第1回には埼玉や鹿児島などから8チームが参加した。04年には夏の全国選手権大会も移り、春夏の全国大会がいちじま球場で実施されることになった。

 同連盟事務局の津田正夫(68)は、町職員として球場の建設にも関わった。「大会を重ねるにつれて女子野球の球場というイメージがついて、他競技に使われることがほとんどなくなった」

 04年秋、市島町は周辺の他5町と合併して丹波市になった。いちじま球場はいつしか「女子高校野球の聖地」と呼ばれ、ここで勝つことが目標となった。

球場は土砂置き場になった

 14年8月16~17日、丹波市は豪雨災害に見舞われた。住宅1千戸超に浸水や山崩れの被害がでた。

 復旧のため取り除かれた大量の土砂が次々と球場の外野に運び込まれた。場所によっては高さ10メートルにまで積み上がった。

 春の選抜大会の会場は14年に関東に移ったが、夏の選手権は参加チーム数を順調に増やしていた。

 津田は振り返る。「何とかいちじまで試合ができないか、と思っていた」

 頻繁に出入りするトラックが内野部分の土を踏み固めたこともあり、水はけが悪化した。補修は間に合わず、15年夏の選手権はいちじま球場の約10キロ南にある同市春日町の球場で行われた。堀は「仕方なかった。続けることが大切だった」。少し複雑な思いを抱きながら、大会を乗り切ったという。

もう「聖地」じゃないのか

 16年夏にいちじま球場に戻った選手権大会は、女子野球関係者らの長年の働きかけが実り、21年夏から決勝の舞台が甲子園球場に移った。

 22年には、参加チーム数が49にまで増えた。試合の消化に支障がでてきたこともあり、23年夏からは兵庫県淡路市の2球場が加わり計5球場での分散開催となった。

 島根中央の佐野に「目標は?」と尋ねた。間髪入れずに「甲子園」という答えが返ってきた。

 「今の選手にとって丹波は、甲子園への一つの通過点かも」と言うのは島根中央監督の大倉史帆里(27)だ。

 大倉は神村学園(鹿児島県)投手として春夏4大会、いちじま球場で戦った。延長タイブレークのマウンドでのワクワク、開会式で大会歌を歌ったこと……。立場を変えて帰ってきていろいろ思い出すことがあったという。

 「ただその時その時を一生懸命生きていた。私にとって、いちじま球場は青春です」

 女子高校野球の選手たちの楽しげなかけ声は、夏の山あいに響き続ける。

=敬称略岡田健

つかさグループいちじま球場

 兵庫県丹波市市島町中竹田。同市として合併前の2000年春、市島町総合運動公園「スポーツピアいちじま」の多目的グラウンドとして完成。当時のパンフレットには「野外スポーツならなんでもOKのプレイ・スタジアム」とある。19年にホテル・旅館経営の「司観光」が命名権を取得した。JR福知山線丹波竹田駅から徒歩20分。

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