78年前の広島への原爆投下直後の様子を撮った写真約1500枚について、朝日新聞と中国新聞、毎日新聞、広島市は共同で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」に登録するため、文部科学省に申請した。国内審査を経て、被爆80年となる2025年の登録を目指す。被爆直後の街で、カメラマンたちは何を目にしたのか。
原爆投下の3日後の1945年8月9日。朝日新聞大阪本社の写真部員宮武甫(はじめ)さん=故人=は広島駅に降り立った。当時31歳。中部軍管区司令部(大阪市)の命令で、「宣伝工作」の写真を撮るためだった。
爆心地から約1・5キロメートルの広島赤十字病院(現・広島赤十字・原爆病院)を訪れると、瀕死(ひんし)の人たちが大勢収容されていた。「声にならないうめき声に、私はカメラを持って立ちすくんだ」という。顔に重いやけどを負った女性や、自らも負傷しながら治療に当たる医師にシャッターを切った。
戦後、原爆報道は連合国軍のプレスコードで制限されます。宮武さんも写真の焼却を求められますが、その時に取った行動とは。記事後半では、朝日新聞元社員の松本栄一さんによる被爆地の撮影を紹介。宮武さんの写真は、記事後半のリンクからご覧頂けます。
窓ガラスが吹き飛んだ福屋百…
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