学校で空襲警報、子供たちとシェルターへ キーウを訪れて感じた憎悪

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 ウクライナ侵攻開始から24日で1周年を迎えるのを前に、首都キーウに行ってきました。街並みの美しさは以前訪れたときと変わりません。時折響く空襲警報にも人々は慣れっこで、表面上は穏やかな日常生活を送っているように見えます。しかし実際に話を聞いてみると、誰もがロシアに対する強い怒りと抑えきれない憎悪を抱いていることがひしひしと伝わってきます。ロシアとの「停戦」にはなんの意味もない。ロシア軍を打ち負かして領土から追い出さないかぎり、ウクライナという国はいずれ世界地図から消されてしまう、という強い危機感を何度も聞かされました。

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 さて今回私は、いったんロシアのモスクワに立ち寄り、そこからキーウに向かいました。

2時間の旅程が2泊3日に、痛感した2国の隔たり

 私がモスクワに勤務していたとき、二つの首都間の移動は直行便で2時間もかかりませんでした。便数も多く、その気になれば日帰り出張も可能でした。

 しかし今は状況はまったく異なります。キーウの民間空港はすべて閉鎖されているため、隣国から陸路で入る必要があります。さらに制裁の影響で、モスクワからポーランドにも直行便が飛んでいません。そのため、旅程は以下のようなものになりました。

 モスクワから空路イスタンブール経由でワルシャワへ。ワルシャワで夜行列車に乗り、キーウへ。イスタンブール空港の乗り継ぎで1夜を明かし、列車内でも1泊。2泊3日かけてようやくたどり着きました。二つの国がいかに遠い存在になってしまったかを痛感します。

 ワルシャワからキーウへの鉄路は複数のルートがあるのですが、今回はポーランド東部の街ヘウムを経由するルートを選びました。

 ワルシャワからヘウムまで3時間弱。ここで列車を乗り換えます。というのも、ポーランドで採用されている線路の幅は欧州標準の1435ミリ。ウクライナの鉄道はロシアなど旧ソ連圏で広く採用されている1520ミリなので、直接乗り入れることができないのです。

 このあたりの事情は、以下の記事に詳しく書かれています。

 ポーランド鉄道でヘウムの駅に着くと、同じホームの反対側にキーウ行きのウクライナ鉄道の列車が待っています。

 昨年開業した西九州新幹線も、福岡から長崎に向かう際には武雄温泉駅の同じホームで在来線から新幹線に乗り換える「リレー方式」を採用していますが、それと同じような感じです。

懐かしい旧ソ連製列車、乗客のほとんどは女性と子ども

 ウクライナ鉄道の車両は旧ソ連製。2段ベッドが二つ納められた定員4のコンパートメントが並んでいます。私が90年代に乗ったシベリア鉄道とまったく同じ造りで、大変懐かしく感じます。

 ヘウムを出発して30分ほどで国境に到着。ポーランド側で約2時間停車し、乗り込んできた係官がパスポートをチェックして出国手続きを行います。ウクライナ側に入ってからさらに小1時間止まって、今度は入国検査です。私のパスポートにはロシアの入国記録が山のように残されているのですが、特に何も言われず、スムーズに入国することができました。

 ワルシャワを正午過ぎに出て、キーウに着いたとき、時間は翌朝6時過ぎになっていました。

 夜行列車で気づいたことが一つあります。ほぼ満席の乗客は、ほとんどが女性と子供なのです。私と同じコンパートメントに乗り合わせたのは2人の女性。同じ車両で成人男性は私だけのようでした。

 考えてみれば当たり前の話です。開戦後、ウクライナでは戒厳令が導入され、成人男性は原則として出国が禁じられています。この列車に乗っているほとんどは、一時的に国外に出ていて、国に帰る女性たちと子供たちなのでした。

一見平穏なキーウ 「プーチンに殺された」犠牲者の象徴

 キーウに着くと、待ちかねたように男たちが列車に続々と乗り込んできました。家族たちと抱き合って再会と無事を喜びあう様子に、胸が熱くなります。

 冒頭に書いたように、街の様子は一見平穏です。

 2014年2月、大規模な反政権デモを暴力で鎮圧しようとした当時のヤヌコビッチ大統領がロシアに亡命した直後のキーウを取材しました。そのときは市中心部の独立広場やその周辺の建物は黒く焼けただれ、悪臭が漂っていました。通りのあちこちにバリケードが築かれ、市街戦の最中といった雰囲気でした。

 あのときに比べると、キーウはかつての美しさを取り戻していました。しかし、戦時中であることを忘れて散歩を楽しむことはできません。

 独立広場の近くの芝生には、おびただしい数の小さなウクライナ国旗が立てられています。多くには名前が書かれおり、近くに立てられたプレートには「プーチンに殺されたウクライナ人」とあります。

 聖ムハイール修道院前の広場には、焼けただれたロシアの戦車や自走砲、装輪装甲車などが並べられています。今回の戦争の「戦果」です。

昼夜問わず空襲警報、シェルターで願った平穏

 そして何よりも戦争の存在を間近に感じさせるのが、頻繁に鳴る空襲警報です。14日早朝にキーウについて以降、朝、昼、深夜を問わず、毎日のように空襲警報が鳴りました。滞在先ホテルにいるときは、ホテルの地下駐車場を改装して造られたシェルターに避難します。街中や取材先にいるときは、地下鉄駅や、取材先最寄りのシェルターに入ります。おちおち落ちついて取材もできません。

 2月15日の午後の空襲警報は、ウクライナ当局の発表によると、ロシアから飛来した気球が原因だったようです。ウクライナの防空能力を試す狙いで飛ばしたのではないかと見られています。もしかすると、中国の気球に触発されたのかもしれません。

 16日は午前2時30分に警報に起こされて、午前4時40分までシェルターで過ごしました。眠い目をこすりながら、自然とプーチン大統領を呪う言葉が口をついて出ます。

 あまりに回数が多い上に、最近はキーウの防空能力が向上して実際にミサイルや自爆ドローンが着弾するケースが減っていることから、住民の多くは、警報が鳴ってもほとんど反応しないことが多くなっています。

 それでも、子供たちの命を預かる施設ではそうはいきません。2月17日にキーウ市内の学校を取材中に空襲警報が鳴りました。生徒たちはすっかり慣れた様子で、地下のシェルターに整然と向かいます。私も子供の頃の避難訓練を思い出しながら、ついて行きました。

 薄暗いシェルターはとても広く、子供たちは思い思いに携帯をいじったり、おしゃべりやゲームを楽しんだりしています。

 とはいえ、落ち着いて勉強しなければならない大切な時期に、授業がしばしば中断する、それも命の危険がいつあるか分からないという状況が、子供たちの心身の成長に影響しないわけはありません。早く平穏な日がウクライナの子供たちに訪れることを願わずにはいられませんでした。

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