薬師寺移転、多角的に探る 「様々な革新を導入?」
奈良・薬師寺は、飛鳥時代に藤原京(奈良県橿原(かしはら)市)に創建されたが、平城京への遷都に伴い、いまの奈良市西ノ京町(平城薬師寺)に移された。この移転をめぐって、建物や仏像は藤原京から運ばれたのか、それとも平城京で新たにつくられたのかという問題が明治時代から論争されてきた。国宝・薬師寺東塔の解体修理がほぼ終了したのを機に、「平城薬師寺をめぐるシンポジウム 『伽藍(がらん)を移す』ことの意味を考える」(仏教芸術学会主催)が11月30日、奈良市の奈良国立博物館であり、建築史、考古学、美術史、歴史学の4人の専門家が多様な意見を交わした。
文献史料によれば、薬師寺は680年、天武(てんむ)天皇が皇后(のちの持統(じとう)天皇)の病気回復を願って藤原京で建立に着手。天武天皇の死去後は持統天皇が引き継ぎ、698年に完成したとされる。710年の平城京遷都で藤原京の様々な施設も移ることになり、薬師寺も718年に伽藍を平城京に移したと記録され、藤原京の薬師寺は「本薬師寺(もとやくしじ)」と呼ばれるようになった。
建築史を専門とする海野(うんの)聡・東京大大学院准教授は、薬師寺東塔の構造について詳細に説明した。現存する東塔の柱の配置や間隔は本薬師寺跡で出土した東塔跡とよく似ており、柱を同じ配置・間隔にする建築は異例であることを指摘。東塔には横方向の木材を2本並べて柱に通す「二重頭貫(にじゅうかしらぬき)」という中国統一王朝の唐でみられた新しい工法が採用され、国内の古い建築にはみられないとして「薬師寺は本薬師寺の大まかな形は継承しつつ、様々な革新を導入したのではないか」とみた。
東塔部材の年輪年代測定にも…
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