谷口さん「私の姿、目そらさないで」 国連で語った被爆

 長崎の被爆者で、30日に亡くなった谷口稜曄(すみてる)さんは2010年、米ニューヨークであった核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米。国連本部で各国政府代表らを前に被爆体験を証言し、核兵器廃絶を訴えた。全文は次の通り。演説の大半は、谷口さんが準備した原稿を、通訳が英語で代読した。《》は谷口さん自身が日本語で演説した。

     ◇

 《議長、ならびにご列席のみなさま。

 長崎の被爆者、谷口稜曄でございます。》

 日本の被爆者23万人と平和を愛する世界のNGOを代表して、ここで発言するという栄誉をお与えくださいまして、ありがとうございます。

 《私は1945年8月9日、当時16歳の時、長崎の爆心地から北方1・8キロの所を自転車で走っていて被爆しました。3000度、4000度ともいわれる強烈な熱線と、放射線によって背後から焼かれ、次の瞬間、猛烈な爆風によって、自転車もろとも4メートル近く飛ばされ、道路にたたきつけられました。》

 突風が過ぎ去ったので顔をあげて見ると、建物は吹き倒され、近くで遊んでいた子供たちが、ほこりのように飛ばされていたのです。私は、近くに大きな爆弾が落ちたと思い、このまま死んでしまうのではと、死の恐怖に襲われました。でも、私はここで死ぬものか、死んではならないと、自分を励ましていたのです。しばらくして、騒ぎがおさまったので起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっていました。背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ、手に黒い物がベットリついてきました。それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっていました。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていました。吹き飛ばされた子供たちは、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいました。

 女の人が、髪は抜け、目は見えないように顔がはれふさがり、傷だらけで苦しみもだえていました。今でも、昨日のように忘れることはできません。苦しみ、助けを求めている人たちを見ながら、何もしてやれなかったことを、今でも悔やまれてなりません。

 多くの被爆者は、黒焦げになり、水を求め死んでいきました。

 私は夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着きました。女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取ってもらいました。そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだけふいてもらいました。工場では新たな攻撃に備えて他の所に避難するように言われました。力をふりしぼって立ち上がろうとしましたが、立つことも歩くことも出来ません。元気な人に背負われて山の上に運ばれて、木の陰の草むらに、寝かされました。周りにいる人たちは、家族に伝えて欲しいと自分の名前と住所を言い、「水を、水を」と、水を求めながら死んでいきました。夜になると米軍の飛行機が機銃掃射して来ました。その流れ弾が私の横の岩に当たって、草むらに落ちました。

 夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくをしゃぶって、一夜過ごしました。夜が明けてみると、私の周りはみんな死んで、生きている人は見当たりませんでした。そこで2晩過ごし、3日目の朝、救護隊の人たちに救助され、27キロ離れた隣の市に送られました。病院は満員で収容できず、小学校に収容されました。

 それから3日後、被爆して6日目、傷から血がしたたり出るようになり、それと共に痛みがジワジワと襲ってきました。1カ月以上治療らしき治療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけでした。9月になって、爆風で窓が吹き飛ばされたままの長崎市内の小学校で、大学病院が治療をしているとのことで、送られました。そこで初めて医学的な治療を受けました。まず輸血でした。でも、私の血管に輸血の血液が入っていかないのです。内臓がおかされていたのでしょう。貧血が激しくて、焼けた肉が腐り始めました。腐った物がドブドブと、体内から流れ、身体の下にたまるのです。身体の下にはボロ布を敷き、それに体内から流れ出る汚物をためては、1日に何回も捨てなければなりませんでした。

 その当時、やけどやけがをした被爆者の身体に、うじ虫がわいて、傷の肉を食べていました。私には1年過ぎてから、うじ虫がわきました。うじ虫が傷口をかじるのがたまらなく痛いのです。

 この写真は約半年後「1946年1月31日」に撮影されたものです。

 私は身動き一つできず、腹ばいのままで、痛みと苦しみの中で「殺してくれ!」と叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想する人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては、「今日も生きてる、今日も生きてる」とささやいておられました。家の方では、何時死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。

 身動き一つできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。いまでも、胸は肋骨(ろっこつ)の間がえぐり取ったような深い溝になり、肋骨の間から、心臓が動いているのが見えます。

 1年9カ月たって、ようやく動けるようになり、3年7カ月たって、全治しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し、1960年まで休みなく治療を続けてきました。1982年ごろから、ケロイドの所に腫瘍(しゅよう)ができて手術を受けました。その後も医学的にも解明できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。

 あの日から半世紀が過ぎました。過去の苦しみなど忘れ去られつつあるように見えます。だが、私はその忘却を恐れます。忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます。私は、かつて自分をその一コマに収めたカラーの原爆映画を見て、当時の苦痛と戦争に対する憎しみが、自分の身体の中によみがえり、広がって来るのを覚えます。

 私はモルモットではありません。もちろん、見せ物でもありません。でも、私の姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで、もう一度みてほしい。私は奇跡的に生き延びることができましたが、「生きる」とは「苦しみに耐える」ことに他なりませんでした。かつて最大38万人いた日本の被爆者はいま、23万人に減りました。私たち被爆者は全身に原爆の呪うべきつめ跡を抱えたまま、苦しみに耐えて生きています。

 核兵器は絶滅の兵器、人間と共存できません。どんな理由があろうとも絶対に使ってはなりません。核兵器を持つこと、持とうと考えること自体が反人間的です。最初の核戦争地獄を生身で体験した私たちは、65年前のあの8月、核兵器の恐ろしさを本能的に学びました。核攻撃に防御の手段はなく、「報復」もあり得ません。もしも、3発目の核兵器が使われるならば、それはただちに人類の絶滅、地球とあらゆる生命の終焉(しゅうえん)を意味するでしょう。人類は生き残らねばなりません。平和に、豊かに。

 《そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。

 私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。

 長崎を最後の被爆地とするため。

 私を最後の被爆者とするため。

 核兵器廃絶の声を全世界に。

 ノーモアヒロシマ

 ノーモアナガサキ

 ノーモアヒバクシャ

 ありがとうございました。》

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