命も日常も、原爆が奪い去った 12人家族が背負う記憶

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久保田侑暉 左古将規 辻村周次郎 宮崎園子

 被爆者の平均年齢は81歳を超え、当時の記憶がない人々が、核廃絶と継承の最前線に立っている。戦前の穏やかな日常、原爆のむごさ、戦後も続く葛藤。被爆から72年、広島の12人の家族「藤森家」が背負う記憶をたどる。

藤森家とヒロシマ:上

 「私は、目と鼻と口だけ出して包帯でぐるぐる巻きにされ、やがて、死を迎えるとみられていました」

 3月、米ニューヨークの国連本部。藤森俊希〈としき〉(73)=長野県茅野(ちの)市=が訴えた。核兵器禁止条約の交渉会議での演説だ。

 「その私が奇跡的に生き延び、国連で核兵器廃絶を訴える。使命を感じます」

 1945年8月6日、広島。母に背負われた俊希は原爆の熱線と爆風を浴び、土手から吹き飛ばされた。1歳4カ月で当時を覚えてはいないが、伝えるべき家族の記憶を背負ってきた。家族12人の中で、生き延びられなかった13歳の姉・敏子(としこ)のこともその一つだ。

 藤森家は、広島市中心部から北へ約2キロの牛田町(うしたまち)にあった。家の前の神田川では夏、地元でギオンボウと呼ぶ、体長1センチほどのハゼの稚魚が群れて泳いだ。ザルですくうと、母が卵とじのお吸い物にした。近所は桜の名所。花見の弁当は焼きアナゴや煮シイタケの巻きずし、卵焼きにようかんと色とりどりだった。

 敏子は四女で、9人きょうだいの4番目に生まれた。俊希を含む3人の弟と妹2人を可愛がった。「お母さんごっこ」が好きで、川遊びの最中、「頭を洗ってあげるね」と、友だちの頭をゴシゴシこすった。

 戦況が悪化し、敏子が45年に入った女学校はその前年に「軍服工場」になっていた。校庭は食糧増産のイモ畑に。主食は大豆やコーリャンだ。「戦争が終わったら、あめ玉が食べられるねえ」。ひもじさから、敏子は母にこぼしたという。

 45年7月、敏子は疎開中の弟に気丈な便りを送っている。「御安心下さい。廣島(ひろしま)はなんの変りも御座居ません。なにかほしいと思ったり、あれがなくては不便だと言ふ思いがあったら、手紙に書いて送りなさい」

 8月初旬のよく晴れた夕方。神田川の土手を敏子がトボトボ歩いていた。セミがジージー鳴いている。

 「あ、としちゃん!」

 3軒隣に住む同級生の女の子が叫んだ。

 「いま、作業の帰りなんよ」。敏子はくたびれていた。空襲警報が連日続き、防空壕(ごう)を掘ったり、イモ畑を耕したりの日々だった。「がんばろうね。また川で泳ぎたいね」。これが彼女との別れの言葉となった。

 8月6日。敏子は空襲による延焼を防ぐため、家屋の取り壊し作業に動員されていた。早朝、母の古い帯で作った布かばんを肩に掛け、路面電車で爆心地から400メートルの市街地へ。1時間働き、午前8時に休憩に入った。15分後、激烈な閃光(せんこう)と熱線、爆風が広島を壊滅させた。

 「あたりの友達を見れば皆目の玉が飛び出し頭の髪や服はぼうっと焼けて、『お父ちゃん助けて、お母ちゃん助けて、先生助けて』と口々に叫んでおりました」「川に水が有っても死人で埋まり、それに人が、があがあ吐きますので飲まれません」

 奇跡的に1週間生き延びた敏子の同級生の証言が、同窓会の冊子に残っている。敏子は遺体も見つからず、お寺の塀の下でかばんだけが焼け残っていた。

 あの日、藤森家の中で長女は爆心から1・4キロ、次女は同約10キロ、父は同約2キロの勤め先にいた。祖父と三女は自宅(同2・3キロ)で被爆した。きょうだいのうち4人は疎開していた。

 広島平和記念公園の南側にあ…

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