日中関係、蜜月時代の幕開け 80年代、文書に高揚感
外務省が12日、24冊の外交文書を公開した。1978年の日中平和友好条約調印後の両国の外交交渉を記録した文書には、胡耀邦(フーヤオパン)総書記ら中国首脳の来日から中曽根康弘首相の訪中にかけ、両国が「友人」となっていく首脳外交が詳細につづられていた。(国名、肩書は当時)
1980年5月、華国鋒(ホワクオフォン)氏が中国の首相として戦後初めて来日した。同月30日、東京都内の迎賓館に華氏を招いた大平正芳首相はこう言った。「日中関係は、ハネムーン時代は終わり、今後双方がそれぞれわがままを述べあうことは自然のことと思う」
72年9月に田中角栄首相が訪中し、国交正常化を実現させてから8年弱。積み重ねてきた両国の関係を象徴する言葉だった。
大平氏は会談で「(中国首相の来日は)画期的なこと。この会談が未来にかける橋になるように望む」と強調。華氏も「国交正常化は近代史上における転換点。中日友好の大橋はすでにかけられた。この大橋をさらに堅実なものにしたい」と応じた。
伏線はあった。会談の約半年前、ソ連がアフガニスタンに侵攻。冷戦は新たな段階にさしかかっていた。「ソ連の侵略のエスカレートは世界人民に教訓を与えている。ソ連の覇権主義に対し、戦うかどうか選択しなければならない」。華氏は大平氏とのやりとりで、ソ連の脅威にたびたび言及。日中友好を深め、ソ連に対抗しようとする中国側の意図がうかがえた。
華氏はさらに踏み込んだ。従来は日本の軍事大国化を警戒する立場だったが、「国の保全を確保するためには一定の自衛力が必要だ。日本政府や国民がこの問題をどう決定するかは、内政問題である」と述べ、日本の防衛力強化に一定の理解を示した。その上で「国際問題における双方の意見は基本的には一致している」と応じ、ソ連への共通認識を確認した。
この会談で、両国の首脳の相互往来が完了。日中閣僚会議の設置も合意した。「日中関係が、乾杯の時代から実務関係の発展の時代に入った」。外務省の文書からも、日本政府の高揚感が伝わってくる。
■個人的な信頼関係、日中は「…
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