夏目漱石「吾輩は猫である」21

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 「いえそれはほんの冒頭なので、本論はこれからなのです」「ふーん」と主人は好奇的な感投詞を挟(はさ)む。「それから、とてもなめくじや蛙は食おうっても食えやしないから、まあトチメンボー位なところで負けとく事にしようじゃないか君と御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、それがいいでしょう、といってしまったので」「ヘー、とちめんぼうは妙ですな」「ええ全く妙なのですが、先生が余り真面目だものですから、つい気がつきませんでした」とあたかも主人に向って麁忽(そこつ)を詫(わ)びているように見える。「それからどうしました」と主人は無頓着に聞く。客の謝罪には一向同情を表(ひょう)しておらん。「それからボイにおいトチメンボーを二人前持って来いというと、ボイがメンチボーですかと聞き直しましたが、先生は益(ますます)真面目な貌(かお)でメンチボーじゃないトチメンボーだと訂正されました」「なある。そのトチメンボーという料理は一体あるんですか」「さあ私も少し可笑(おか)しいとは思いましたが如何にも先生が沈着であるし、その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えてトチメンボーだトチメンボーだとボイに教えてやりました」「ボイはどうしました」「ボイがね、今考えると実に滑稽なんですがね、暫(しば)らく思案していましてね、甚(はなは)だ御気の毒様ですが今日(こんにち)はトチメンボーは御生憎様(おあいにくさま)でメンチボーなら御二人前すぐに出来ますというと、先生は非常に残念な様子で、それじゃ切角ここまで来た甲斐(かい)がない。どうかトチメンボーを都合して食わせてもらう訳には行くまいかと、ボイに二十銭銀貨をやられると、ボイはそれではともかくも料理番と相談して参りましょうと奥へ行きましたよ」「大変トチメンボーが食いたかったと見えますね」「しばらくしてボイが出て来て真(まこと)に御生憎で、御誂(おあつらえ)ならこしらえますが少々時間がかかります、というと迷亭先生は落ち付いたもので、どうせ我々は正月でひまなんだから、少し待って食って行こうじゃないかといいながらポッケットから葉巻を出してぷかりぷかり吹かし始(はじめ)られたので、私(わたく)しも仕方がないから、懐から『日本新聞』を出して読み出しました、するとボイはまた奥へ相談に行きましたよ」「いやに手数が掛りますな」と主人は戦争の通信を読む位の意気込で席を前(すす)める。「するとボイがまた出て来て、近頃はトチメンボーの材料が払底で亀屋(かめや)へ行っても横浜の十五番へ行っても買われませんから当分の間は御生憎様でと気の毒そうにいうと、先生はそりゃ困ったな、切角来たのになあと私の方を御覧になって頻りに繰り返さるるので、私も黙っている訳にも参りませんから、どうも遺憾ですな、遺憾極(きわま)るですなと調子を合せたのです」「御尤もで」と主人が賛成する。何が御尤だか吾輩にはわからん。「するとボイも気の毒だと見えて、その内材料が参りましたら、どうか願いますってんでしょう。先生が材料は何を使うかねと問われるとボイはヘヘヘヘと笑って返事をしないんです。材料は日本派の俳人だろうと先生が押し返して聞くとボイはへえさようで、それだものだから近頃は横浜へ行っても買われませんので、まことに御気の毒様といいましたよ」「アハハハそれが落ちなんですか、こりゃ面白い」と主人はいつになく大きな声で笑う。膝が揺れて吾輩は落ちかかる。主人はそれにも頓着なく笑う。アンドレア・デル・サルトに罹(かか)ったのは自分一人でないという事を知ったので急に愉快になったものと見える。「それから二人で表へ出ると、どうだ君うまく行ったろう、橡面坊(とちめんぼう)を種に使ったところが面白かろうと大得意なんです。敬服の至りですといって御別れしたようなものの実は午飯(ひるめし)の時刻が延びたので大変空腹になって弱りましたよ」「それは御迷惑でしたろう」と主人は始めて同情を表する。これには吾輩も異存はない。しばらく話しが途切れて吾輩の咽喉(のど)を鳴らす音が主客(しゅかく)の耳に入(い)る。

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