(ナガサキノート)親友の死、放射能の不安 福島に共感

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力丸祥子・28歳

岩本千枝子さん(1939年生まれ)

 東日本大震災による東京電力福島第一原発の事故。「同じ放射能の影響を受けた者として、ひとごとではない」。長崎市平和町の岩本(いわもと)(旧姓村本)千枝子(ちえこ)さん(76)は、反原発の市民団体NAZEN(ナゼン)ナガサキ(すべての原発いますぐなくそう!全国会議 ナガサキ)の一員。夏休みに福島県から親子を受け入れる「保養」の活動に参加し、今年で3年目になる。

 昨夏は、大村市のキャンプ場で開催。子どもたちは水着姿で次々に川に飛び込み、おおはしゃぎ。普段は放射能の影響が気がかりで外で思いっきり遊べないが、車で片道40分の海水浴場にも毎日通い、真っ黒に日焼けして帰ったという。「来た時はちょっと暗い表情だった子も、外で遊ぶうちに笑顔になった」と岩本さん。

 原点にあるのは6歳の時、爆心地から1・5キロの銭座町で被爆したこと。「福島の人たちの不安がよくわかる。私にできることをしたい」と考えている。

 岩本さんは、郵便局員の父克巳(かつき)さんと母ミカさんの長女として長崎市銭座町で生まれた。同居していた祖母の力寿(かじゅ)さんは毎晩、岩本さんを抱いて眠る優しい人だった。

 ところが、原爆が投下される1年前の1944年7月、岩本さん一家に悲しい出来事があった。

 弟の哲夫(てつお)君(当時3)がはしかをこじらせ、亡くなった。岩本さんは「てっちゃん」と呼んでかわいがり、共同浴場に一緒に行った時、哲夫君の背中を流してやったことを今でも覚えている。

 戦争中で医師も薬も不足し、十分な治療を受けられなかったという。「戦争中でなければ、きっと治る病気だった。お医者さんにしっかり診てもらえれば助かったはずなのに……」と悔やんでいる。

 その年の8月、家族は哲夫君のために精霊船を出した。「立派な船だった、と親戚が教えてくれた。物がない時代でも、両親は息子への思いを込めたんだと思う」

 「小さい時の記憶は多くない」という岩本さん。だが、幼稚園児のとき、空襲警報が発令されると、家まで走って逃げ帰ったこと、その時の「怖い」という気持ちは今も鮮明に覚えているという。

 1945年4月、岩本さんは銭座国民学校に入学した。父克巳さんは長女の入学をとても喜び、張り切って赤いランドセルを買ってくれた。岩本さんは「ぴかぴかで、うれしかった」と振り返る。

 だが、学校に慣れ始めた6月ごろ、校舎での授業はなくなった。代わりに近くの神社の境内に先生が出張し、寺子屋形式で学ぶようになったという。岩本さんは子どもながらに「まさか長崎が攻撃されるなんて。学校は夏休みに入ったんだな」と思っていたという。

 8月9日は朝から友だち数人と近所の広場で遊んでいた。午前11時前ごろ、誰かが「お昼がすんでからまた遊ぼう」と言い出した。それをきっかけに家路についた岩本さんは原爆の直撃を免れることになる。

 近所の広場で遊んでいた岩本さんが長崎市銭座町の自宅に着くと、母ミカさんが、押し入れから布団を出して、生まれて75日目の妹タミ子さんを寝かせようとしているところだった。

 外で遊んでのどが渇いていた岩本さんは、台所の水がめから、ひしゃくで水をすくい、ゴクゴクと飲んでいた。その時、航空機が近づくような轟音(ごうおん)がした。突然ミカさんが叫んだ。「千枝子、おいで」

 押し入れの下の段に引き込ま…

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