(被爆者の声)中嶋輝男さん「平和へ私たちがブレーキ」

聞き手・八尋紀子
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熊本市北区(長崎) 中嶋輝男さん(88) 長崎電話局職員

 1944年に長崎電話局に入り、保守を担当していました。45年3月には徴兵検査を受け、甲種合格しました。友達は次々と召集されましたが、自分はされませんでした。

 軍隊の通信装置の保守の担当になり、「高射砲第134連隊」の指揮班があった鍋冠山に出勤するようになりました。そこから陣地があった金比羅山や稲佐山などを徒歩で回って点検するのが仕事でした。

 原爆投下時は長崎市に隣接する長与村(現長与町)の実家にいました。宿直勤務だった8月8日午後10時すぎ、連隊の班長に呼ばれて「明日の午後6時に帰隊すればいいから。その代わりに大豆ば持って来い」と言われました。すでに列車はなく、4時間ほどかけて実家まで歩きました。

 翌朝、仕事に行った父の代わりに松根油を採る地域の作業に参加し、近くの山に入りました。爆心地から10キロほど。瞬間的に平たい金属が通り過ぎたような突が吹き、木の葉が巻き上がった。

 山から下りると、店のガラスは割れ、戸が曲がっていました。電話も通じません。その後、ぽつん、ぽつんと人が歩いてきました。「長崎は丸燃え」「一軒もない」「火の海」と言う。長崎に向かう汽車に兵隊や看護師がぶらさがっていたので、えらいこっちゃ、これは大変なことが起きたと思いました。

 弟は浦上駅で、おやじは長崎駅で駅員をしていました。家族で「もう死んどっとばい」と話していましたが、家に帰るとおやじが寝ていた。おやじは宿直明けで原爆が落とされる前に帰っていました。弟も急に諫早に出張に向かうことになって無事でした。

 軍隊に戻る途中、長与駅前の広場はたくさんの人が真っ黒けになって寝ていました。次々とリヤカーに人を乗せて逃げて来る人がいて、みんな「水、水」と言っていました。長崎市内に近付いていくと、線路の脇で真っ黒になった挺身(ていしん)隊の女学生が線路に手をかけて死んでいました。哀れでした。その先は火の海。浦上駅は跡形もありませんでした。

 長崎電話局の局舎は無事でしたが、電話回線はほぼ全滅。一緒に局に入った友人は爆心地から2キロほどの自宅で直爆で亡くなりました。1週間前に父親の転勤で引っ越したばかりで、9日朝に帰宅して寝ていたところだったそうです。

 今、自衛隊が海外で戦争するかもしれないと言われています。安倍さんは「平和のため」と言うが、「平和のため」と言われると反対できない。それが怖い。戦争や軍隊を知っている私たちがブレーキをかけないといかんと思います。

 自衛隊員が戦死すれば、次は赤紙や召集になることは目に見えとる。みんな兵隊を経験していないから、軍隊や戦争がどういうものか、わかってない。

 当時の話をできる仲間はいなくなりました。覚えとることだけでも書き残さなければと思い、資料を集めていましたが、一昨年、脊柱(せきちゅう)の病気になって家の中でも杖が必要になってしまった。2階の書斎にも上がれず、書き進められません。

 原爆のことは子どもたちと接した時に、何度か語りました。「核廃絶と言われても、核兵器がどういうもんか分からないからピンとこん」と言う。被爆の話は少しずつ薄まっていくのじゃないか。だから、被爆者に代わって話せる人を養成するしかない。そこから何かが動き出して伝わっていくんじゃないか。

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