コロナ禍の3年間が終わり、次のパンデミックに向けて政治と科学の関係はどうあるべきなのか――。連載「コロナ5類 専門家たちの葛藤」について、科学技術と社会との関係が専門の佐倉統さんはコメントプラスで、「多様な分野の専門家がいろいろな意見を提出して、政治家がそれらを総合的に判断して最後の決断を下すべしという図式は美しい」としながらも「日本に限らずどこの国でもうまく機能していないのが気になる」と指摘します。どういうことなのでしょう。コメントプラスに加筆した佐倉さんの寄稿です。

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科学重視派からも、生活重視派からも中途半端で不十分

 まずは事実をおさえておこう。ジョンズ・ホプキンズ大学やWHO(世界保健機関)のデータをまとめているウェブサイトによると、2023年5月24日現在の、新型コロナウイルス感染症による人口100万人あたりの主な国別累積死者数は、イギリス3351.2人、アメリカ3339.7人、韓国669.3人、そして日本601.0人。世界平均は873.4人。

 もちろん死者の数だけが被害の深刻さを測るものさしではないが、さりとて軽んじていいわけでもない。総体として見れば、日本はコロナに対して、そこそこうまく対応した国であると言っていい。

 しかし、にもかかわらず、日本のコロナ対策にはさまざまな批判が噴出している。

 とくに、政治家が感染症の専門家による科学的知見を軽視しすぎだという「科学軽視批判」と、逆に科学的判断が重視されすぎて日常生活が不当な圧迫を受けているという「科学至上主義批判」だ。この正反対の二つの批判は、新型コロナ感染症が始まった当初から今に至るまで、常に発せられてきたが、おもしろいことに、どちらの主張にもそれなりの理があるように見える。

 ということは、日本政府のコロナ政策は科学重視派から見ても生活重視派から見ても中途半端で、不十分なものだったことを意味している。

 だが、先に述べたように、人口あたりの累積死者数で見る限り、結果的には決して悪くはなかったのである。

 逆説的に響くかもしれないが、これは政治家も含めて社会全体がさほど科学的でなかったからではなかろうか、と思うのだ。日本の社会総体がそこまで科学主義的にできていないがゆえに、結果としては科学と生活の中庸というか、バランスが取れた対応になったのではないか。

 新型コロナ感染症は未知の病気だったため、当初は科学的データも少なく、科学的な対応を取ろうにもよりどころがなかった。時が進むにつれて徐々に研究成果が蓄積され、それにもとづく対応策も方向性が見えてきたが、世界各国で困難なかじ取りが強いられた。科学主義と生活重視のバランスの取り方はことのほか難しく、どちらに偏ってもうまくいかなかったということは今になってみれば明らかだ。

東アジア3国・地域に共通?

 感染症を徹底的に封じ込める政策を続けた中国(85.0人)は、感染者数こそ低く抑えることができたが、経済成長は鈍り、国民の間に大きな不満がたまった。反対に当初、日常生活をほとんど規制しなかったスウェーデンは感染による被害が予想を超えて甚大になり、途中で方針転換を余儀なくされ現在までの国民100万人あたりの累積死者数は2300人を超える。

 もちろん、対応する政策が科学重視かどうかだけで結果が決まるわけではない。その国の保健医療体制全体の頑健さや医療従事者の技量と職能意識の高さ、自治体役所の有能さ、国民一人ひとりの衛生意識など、さまざまな要因が複雑に絡み合っての結果である。

 だが、日本だけでなく韓国、台湾(759.8人、この数字はジョンズ・ホプキンズ大学のデータを元に佐倉が計算)と、東アジア文明にあって近代化の過程で西洋近代科学を導入した3国・地域がそろって相対的には少ない死者数に抑えていることを見ると、西洋科学が社会に浸透している度合いの浅さが、それなりに関係している可能性は否定できないと思う。

 日本の知識人や文化人たちは江戸時代の後期から、西洋の近代科学を積極的に導入してきた。その蓄積の上に明治以降の国家主導による科学技術推進が重なり、基礎科学でも産業技術でも、世界トップクラスの成果を出してきた。

 だが、社会全体に科学主義が浸透しているかというと、そうとは言いきれない。

 明治期のお雇い外国人教師で日…

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