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桑原道夫(くわはら・みちお)1948年生まれ、埼玉県出身。東京外語大を卒業後、72年丸紅入社。米州支配人、副社長を経て、2010年からダイエー社長。丸紅時代は自動車畑を歩き、米国など海外駐在も長い。かつて小売り日本一を誇ったダイエーの黒字復活に向け奮闘が続く。麻生健撮影

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大阪・千林駅前に第1号店(写真1)

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大阪・寝屋川市に出店した「国内初の本格的郊外型ショッピングセンター」(写真2)

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ブブ カラーテレビ(写真3)

■ダイエー再生への道

 寒い日が続きますが、皆さんお元気でしょうか。今回は、ダイエー再生にむけての歩みについて、お話ししたいと思います。

 平成生まれの若い世代の方には、ダイエーの築き上げてきた歴史をあまりご存じでない方もいらっしゃるでしょうから、少し、当社の歴史をひもといてみましょう。

 ダイエーの歴史は、まさに「流通革命」への挑戦そのものです。

 創業は1957年。大阪の千林駅前に第1号店となる「ダイエー薬局・主婦の店」をオープンし、今年は創業55年を迎えることになります。(写真1)

「ダイエー」というと、総合スーパーや食品スーパーを想像する方も多いかもしれませんが、創業店は、実は、97平方メートルの店内に薬、化粧品、日用雑貨、缶詰・瓶詰食料品を販売するドラッグストアでした。

 創業以来、「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」、「For the Customers」という理念を掲げ、「お客様の購買代理人」として、生活者が「求める商品」を「求める価格」で品ぞろえすること、すなわち「つくる側の論理」から「使う側への論理」への転換にむけて、生産から流通に至る仕組みを根本的に変革することが求められました。

◆5万9千円のカラーテレビ

 高度経済成長へ突入する中で、お客様からは生活必需品を低価格で買えることへの期待が高く、59年には、衣料品、日用品、精肉、鮮魚、青果と品ぞろえを拡大し、現在の「総合スーパー」の原型を誕生させました。また、68年には大阪・寝屋川市の香里に、買い物のついでに食事をしたり、遊んだり、ワンストップで楽しめる、「国内初の本格的郊外型ショッピングセンター」を出店しました。(写真2)

 また、今では、プライベートブランド(PB)商品という言葉がすっかり一般的になりましたが、当社がPB商品をつくったのは、創業5年目の1961年です。55年の歴史の中で、ダイエーが社会に影響を与えた商品は多々あります。

 例えば、記念すべきPB第1号商品は、同年7月のコーヒー豆の輸入自由化に合わせてつくった、「ダイエーインスタントコーヒー」です。当時、コーヒーは大変なぜいたく品であり、豊かさの象徴でした。

 このほか、70年に「ブブ カラーテレビ13型」を「59,000円」で発売した時には世間に大きな衝撃が走りました。当時、大学卒初任給が4万円といわれた時代ですが、13型カラーテレビは市価で1台10万円以上していたものを半値で売り出したことに加え、公正取引委員会が、メーカーの設定する正価と実売価格に2~3割の差があることに対して、「家電製品の正価に不当表示の疑いあり」という結論を出した中での発売ということもあり、生活者を守るシンボルにもなりました。(写真3)

◆価格破壊が流行語大賞に

 こうした取り組みは価格面でのインパクトが大きく、その後、NB商品も追随するなど、市場全体の価格の引き下げにつながり、社会からは「価格破壊」と呼ばれ、94年には「新語・流行語大賞」に選ばれるなど、大きな支持を得ることができたのです。

 以上のような、様々なタイプの店舗やPB商品の開発といった、先駆的な取り組みのほか、物価値上がり阻止運動や阪神・淡路大震災時における商品の安定供給といった活動を通じて、社会的にも、チェーンストアが不可欠な存在となるべく努力を行ってきました。昨年の東日本大震災においても、その経験が生かされたと思います。

 一方で、阪神・淡路大震災において、基盤であった神戸地区が大きな損害を受け、また、バブル経済の崩壊やお客様のニーズの多様化といった時代の変化への対応が遅れたのも事実です。00年度に最大で2兆5千億円を超えた巨額の負債を減らすべく、財務リストラなどの改革を進めました。

 相応の効果はあったものの、依然として債務を抱え、また、コア事業である小売り事業は抜本的な収益力の回復に至らず、事業環境の悪化などで営業力の低下が深刻な状況にあったことから、その解決に取り組むため、04年に産業再生機構主導による支援を受けることになりました。

 その後は、07年3月に丸紅・イオン・当社との3社による業務・資本提携を行い、丸紅・イオン2社の資本を受け入れながら、引き続き再建を目指してきましたが、09年度に、ダイエーは連結決算数値公表以来初の営業赤字を計上しました。営業赤字というのは初めての事態でした。

 営業利益の赤字が続けば、どこかでお金が回らなくなります。私も丸紅で販売事業を経験しましたが、販売業における営業利益段階での赤字というのはあってはいけないと思っています。営業黒字さえ続けば、たとえ経常赤字でも資本増強など、やりようがあります。その事業に興味を持ってお金を出そうとする人も出てきます。ですから、営業利益を黒字にすることが何よりも肝要です。

 この局面で、当時、丸紅の副社長だった私に「立て直してこい」と言われました。丸紅を退職し、退路を断って、私もダイエーの黒字化をやり抜く覚悟で、2010年にダイエーにやって来ました。

◆「売り上げはすべてを癒やす」

 ダイエーの抱えていた問題を語る時、創業者の中内さんを避けて通ることはできません。中内さんはダイエーを一時は連結売上高3兆円超、日本一の小売企業に育て上げた経営者です。中内さんは本当に先見の明がある方で、時代に合ったお店を作って業界を牽引(けんいん)し、またダイエーを成長させていきました。

 ただ、後半は、時代や環境を見誤った中内さんというもう一つの面があったのではないかと思います。振り返ってみると、「売り上げはすべてを癒やす」という言葉に示される、「売り上げ至上主義」です。私は、小売店というものは5年に1回程度は改装が必要だと思っています。昔のダイエーは既存店でもうけたお金を新規出店に費やしたり、本業ではない事業に手を出したりして、結果として、既存店への投資を怠る形になってしまいました。一方で、先にふれた通り、借金が大きく膨らんでいました。この負債と、店舗が老朽化したことが、ダイエーが苦境に陥ってからの道のりを、さらに険しいものにしていったわけです。

 社長に就任した際、「とにかく営業黒字にしよう」ということを社内であらゆる機会に言い続けました。最近は、店長からも「営業黒字」という言葉が自然と出てくるようになりました。かなり、浸透したと思います。

 まずは、ダイエーは経費(販管費)が大きいこともあり、ここを絞りました。人件費や施設費、販売費、営業費といった費用です。09年度に190億円、10年度は280億円、11年度はさらに160億円程度を削減する予定です。

 経費削減というとマイナスのイメージがあるかもしれませんが、不採算店舗の閉鎖、赤字に陥っている事業会社の再編といった目立つものから、店舗の賃貸借契約の見直しによるコストの圧縮やパートさんとの契約を見直して、一人が多数の業務を担えるようにする、といった働き方の見直しをするなどの細部にまで踏み込みました。

 社長の立場として大きかったのは、10年9月に金融機関と大規模なローンの借り換えに合意できたことでした。ダイエーはこれまでの再建途上で計画を達成できず、投資家から見ると不信感があったかもしれません。自ら金融機関を巡って、今回は違うんだということを理解してもらい、今後の成長に向けた投資に回すことができました。

 10年度の決算は連結営業利益が32億円の黒字となり、取り組みが結果に表れました。11年度は経常黒字化、12年度は純損益を黒字にすることが、私の経営目標です。目先の経常損益のことを考えると苦しいのですが、将来の成長にむけて、店舗への投資や、新しいタイプの店の出店も、歯を食いしばって続けています。それが、中期経営計画で掲げている「光り輝くダイエーの復活」のためには不可欠と考えるからです。この投資を続けながら、最終的には純損益の黒字を達成することができれば、復活に向けた大きな山をクリアできた、と言うことができるでしょう。

 今回は赤字を減らしていく「守り」の話をしました。では、次の成長に向けた「攻め」をどのように描いていけばよいのか。

 これは、また回を改めてお話しすることにしましょう。