(社説)本を読む権利 切なる声にこたえたい

社説

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 先月芥川賞に決まった市川沙央さんの「ハンチバック」は、読み手に痛烈な衝撃を残す作品だ。重度障害で身体を自由に動かせない市川さんの思いを、主人公がこう代弁する。

 「私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さを憎んでいた」

 出版界で電子化が進まないため、読みたい本が読めない。これは重大な権利侵害だ。その思いを作品に込めたという。

 国際条約の批准を受けて19年にできた読書バリアフリー法は、視覚障害者のほか、本を持ちページをめくるのが難しい人などの読書環境の整備をうたう。すべての国民が活字文化の恵沢を享受できる社会をめざすが、きわだった成果にはつながっていないのが現状だろう。

 たとえば電子書籍には、紙の本のような重さがなく、文字を拡大して読める利点がある。画面の自動読み上げ機能を使って本を「聞く」ことも可能だ。しかし、電子書籍として売られている本は少ない。

 新しく刊行される本のうち、4分の3は紙でしか読めないとの指摘もある。特に教育や研究に必要とされる本で電子化が進んでいない。中小の出版社では追加コストなどが壁になっているようだ。電子化を許さない著者もいる。

 これまで、図書館やボランティア団体などが点訳したり読み上げたりして読書の機会を提供してきたが、量は十分でない。今は出版社がテキストデータを提供すれば、障害者個人でも専用機器に読み上げさせることなどが可能になるが、提供に応じる出版社は多くないようだ。手間がかかることや流出への懸念が背景にあるという。

 しかし、従来の商慣行はバリアフリーの要請を退ける理由にはならないはずだ。出版界にはより積極的な行動を求めたい。

 「紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい」

 市川さんの訴えは、本を自由に読めない人々の苦境を厳しく世に問うものだ。多数派は現状で十分でも、一部の人が切実な困難を抱えている場面は読書に限らないだろう。特にデジタル化がバリアフリーの実現に果たす役割は大きい。少数派の人々が置かれた状況に広く考えを巡らせる機会としたい。

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